暑すぎて、もうまともではありません

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

七夕(7日)のダブルスコアな(14日)夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

うだるように暑さに、頭が回らない原因を押し付けて、ただただぼーっとしてみよう。

 

というわけで、もう、何も考えられないのだった。

 

野帳を開いても、言葉が出てきません。

 

いったいものごとを考えているときのあの言葉たちは、どこからくるのでしょうか?

 

時に、自分の頭の中でひらめいたと思える言葉も、まるで外部からやってきたように思えることもあるのです。

 

野帳を開いて、手にした筆記具から言葉が紡ぎ出される、そんな感触を感じたことも、一度や二度ではないのです。

 

モスラの幼虫よろしく、口から糸を吐くように、言葉がほとばしり出ることもあります。

 

無地の紙を前にして、まるで最初からどこに何を書くのかを決めていたかのように、その時に考えていたことが「図解」されることもあります。

 

手と目と、それから脳の、奇妙な共同作業。

 

それらの言葉や図解が消えてしまわないうちに、書き止めようとやっきになることもあります。

 

けれどもこの暑さで、手や目はまだ健在ではあるものの、脳が休止状態。

 

もう何もまともなことは、考えられそうにありません。

 

何かしら「文字」を書いていれば、そのうちスイッチも入るだろうと、ToDoリストを作ったり、買い物リストを書き出してはみるのですが、その後が続きません。

 

自分が日々考えていることや、自分が目にしたり耳にする情報は、すべてが断片なのだ。

 

しかしその断片を、パッチワークのようにつなぎ合わせて、幻でもいいからとりあえずの全体像に仕立て上げていく。

 

ニュースにしても本からの情報にしても断片なのです。

 

そのままではいつとはなしに消えていく。

 

けれどもほかの断片とつなぎ合わせて、別の意味を持たせれば、世界の断面が表れてくるのかもしれません。

 

客観的な世界というものは、どこにもなくて、我々一人ひとりのそれぞれの主観的な世界が、各自の内部にあるのでしょう。

 

その世界を、どのよう育てていくのか。

 

日々ネガティブな情報に接し、その内部世界にネガティブな情報を送り込んでいれば、その人にとっての世界は、否定的に描かれるようになるかもしれません。

 

けれども逆の世界像も、日々の情報の取り方で形作ることが可能でしょう。

 

その意味では、我々は自分が信じた世界を生きているのです。

 

それなのに、どうして会話が成立するのかということに関しては、継続審議とさせていただきたい。