ゲリラ豪雨のあとに、なんだか疲れてしまって、
こんにちは。
てらぴーだよ。
ゲリラ豪雨のおかげで涼しくなった夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
やってきましたゲリラ豪雨。
一瞬の恐ろしい雨足。
つかまったらあっという間にずぶぬれ。
でもそのせいもあってか、夜は涼やかです。
暑さや蒸し暑さで集中力をそがれないので、自分の内面と対話してみましょう。
やりたいことができているか、今いる場所が居たかった場所なのか。
時折りは問い直さないと、あらぬ方向に進んでいたり、自分がいるべきではない場所に立っていたりしますから。
けれどもそうした間違いに気づくのはほとんどが事後報告のようなもの。
間違えてしばらくたって、「道を間違えてますよ」と言われても、その時にはもう引き返せないところにまで進んでいて、間違いを見つめるのがせいぜいだったりします。
手に残るのは、後悔。
それでも、時間は進んでいくので、しかるべき対処をしないと、さらにあらぬ方向に進んでしまいそうです。
自分という船の舵が壊れているかのように。
「おかしい、自分がこの人生の主人公ではなかったか」との問いかけもむなしく、主役ではないことを日々痛感する「主人公」
どこで間違えたのだろう。
けれども、その時々の、自分の選択を引き返すと、今日の自分へとつながる、必然の糸が見えてくるからやりきれない。
やっぱり自分で選んでました。
というわけでの今日の到達点から、さて何をしましょうや。
本当に、何ができるのでしょうと、自問自答の毎日。
ああ、誰か、インポッシブルでもいいから、「そこで今日の君の使命だが」と伝えて欲しい。
ああいう映画が流行るのは、みな心のどこかで、自分も大儀のために活躍したい、といった使命感にあこがれているからではないかと思うのです。
自分には何か、世界平和や地球を救うような使命があるのではないか。
仕事の帰りに寄ったスーパーで、「半額」とシールを貼られた売れ残りのお弁当と、ペットボトルのお茶で夕食をとっていても、どこかで壮大な使命とそれに見合う体験が控えていてほしい。
って、そんなものがドラえもんのように机の引き出しから現れるわけもなく、ただただ平凡で取るに足りないその他大勢の生活が繰り返されていくばかり。
誰もが、主人公ではなかった。
とは言え、ここで終わってなるものかと、生活に新しさ、充実感を取り入れようとは思っているのです。
ただ、従来の生活からくる習い性がことのほか強すぎて、新しい自分へのステップを踏ませてくれない。
「半額弁当でいいじゃないか、それ食って、また明日も仕事だ」という「昨日と同じで安心だ」の引力は強すぎます。
だからこそ、どこかで「使命」が配られていないのか、アマゾンで売られていないのかと夢想したくなるのです。
もちろん、人生に目的や意味などありません、それは理解できます。
けれどもその後に、「だから、自分で見つけ出すのだ」という文言が続いてほしい。
「徹頭徹尾、人生に意味なし」とはつながらないで欲しい。
たとえ半額でも、その弁当を買って空腹を満たすのは、自分の命を長らえるためで、それはまた明日、自分が社会に働きかけることで、少しでも良い方向に進むことを願ってのことなのでしょう。
ただ生きていればいいというものではありますまい。
そこにどうしても意味を求めてしまう。
それもまた、自分で作り上げていく、とはわかっていても、周りからの認証が欲しくなる時もある。
ワタシハ、ヤクダッテイマスカ?
疲れているのは、体だけじゃないですよね。