「わたし」はいつの間にか「われーわれ」になっている
こんにちは。
てらぴーだよ。
午後のスコールがもはや定番の夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
今日も、ゲリラほどではないにせよ、ひとしきりのにわか雨。
もう南国。
はたして人類は、気候変動をそのテクノロジーで抑え込めるのでしょうか?
それゆえ、新しい哲学や倫理学が模索されているのでしょう。
もしかしたら、集合知なるものが働いて、画期的な考え方捉え方が生まれるかもしれません。
それは、誰か特定の個人を「依り代」にして、集合知が降りてくる、といった形をとるのでしょう。
まさに、オリジナルな考えなどありはしない。
集合的無意識が、全体にいきわたるのではなくて、ある個人から発せられる、でもその内容は、言ってみれば「みんなが望んだこと」なのかもしれず、そこにこそ、集合知たるゆえんがあるのだと思います。
ある個人が犯した犯罪が、社会的時代的な文脈で語られるがごとく、ある発想も、個人の思索の果てに生まれた、というよりは、「みんなで作り上げた」と言ったほうがいいのかもしれません。
とは言え、やはり出どころは、個人なのでしょうけど。
と考えたら、ふだんの思考のあれこれも、もしかしたら人類の進路に、何かしらの影響を与えているかもしれません。
つまらない考えを繰り返してはいけないのですね。
でもいきなり、「人類の向かう先をこのわたくしが考える」というのは荷が重い。
せめては頭の中から「呪いの言葉」を無くしましょうか。
あるいは、対立を是とするような思考の数々。
少し油断をすると、わたくしのような小さい人間は、すぐに脳内で、「自分が必ず勝つ」言葉によるバトルを繰り広げてしまいます。
文句をいったり並べたり、人を非難したりやり込めたり、果ては口には到底出せない「呪いの言葉」を(脳内で)口にしたりしているのです。
そうした思考がいつしか脳内から無意識下に落ちていき、集合的無意識にまで入り込んでいくのでしょう。
どんなに澄んだ水でも、たとえスポイトであっても「汚れた水」を混ぜていけば、どこかにおりのように「汚水」がたまっていき、それが間欠泉のように時に吹き上がる。
それが世間でいう「事件」。
特に時代の刻印を帯びた事件は、犯人を裁いても解決にならないことが多いのではないかと思います。
「あの犯人は自分だった」といった感想が、あながち比喩ではない深刻さを持っているからです。
ダレニデモ、オコリエタ。
「社会」を営む意義も、逆説的ではあるものの、その辺に求められるのかもしれません。
個人が「怒りを鎮める」ことが、個人を越えて「われわれ」になにがしかの影響をもたらす。
そしてそれは「怒り」にとどまらないでしょう。
であるならば、できるだけ笑って過ごしたほうが、実に世のため人のためでもあったのです。
寝る前に、手帳を開いて、今日の呪詛を繰り延べないで、心に起こったさざ波は、今日を限りといたしましょう。
そして明日のスケジュールを確認して、「楽しみ」を忍び込ませましょう。
今日の笑いと明日の楽しみを、世界に発信するように心に満たしましょう。
そして世界の行く末に、自分の今日のこの感情も関わっていると信じましょう。
もとより証明などできないのですから、つながっていると信じるよりほかありません。
でも自分の、今日の手帳の中身が、世界につながっているなんて、それはそれで痛快ではありませんか。
「わたし」は何ら孤立せず「われーわれ」へとつながっているのです。