『シンニホン』より『「人新世」の資本論』
こんにちは。
てらぴーだよ。
涼しくなった夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
夕方かなり強い雨が降って、その後外に出てみたら、思いのほか涼しい。
今夜は涼やかに寝られそうです。
相変わらず、コロナが猛威を振るっていますが、マスクの生活も「当たり前」になってきています。
「あの頃は、道を歩いているときとかはともかく、お店に入るときには、必ずマスクをしないと入れなかったんだよ」と子や孫に教えられる日が来るのでしょうか?
コロナが変えたものは、マスクをする生活だけではなく、僕たちの人生設計、生き方そのものにまで踏み込んでいると思います。
働き方は言うに及ばず、どこに住んでどのような生活をどんな人たちと営むのか。
そのような観点から問い直せば、これまでの、会社務めを中心とした都市型の生活なんて、高々数十年の間に広がったものだと分かるでしょう。
「会社員(月給取り、サラリーマン、働く女性は基本想定していないのでサラリーウーマンという言い方は当初なかった)」
そしてその「会社員」である「ご主人」を支えるための「専業主婦」が広まったのだって戦後の現象でしょう。
そして地縁から切り離された核家族による団地生活。
これまでの当たり前な「社会」、その再生産としての「教育」、それらがことごとく制度疲労を起こして、根源的に捉え直されているのだと思います。
もちろんそのような捉え直しはこれまでにもありました。
けれども既存の社会の諸制度の前に批判の矢は根源にまでは届かなかった。
その状況を変えたきっかけがコロナ。
そして、こういう時代相では、なぜかその変革を後押しするような論考が続くものです。
例えば『ブルシットジョブ』のような。
毎月決まった収入がある仕事があって、それで生活すなわち人生が成り立っているのだけれど、でも立ち止まって考えてみたら、この俺のやっている仕事って何だったのか、といった問い直しが広く浸透しているのではないですか。
「そうは言っても生活があるから」を突き抜けた事例は、このご時世ネットで探すことができます。
例えば田舎に移住してライフスタイルを自分好みに変えた例などいくらでも見つかるでしょう。
もちろん「こんなはずじゃなかった」という失敗例もあります。
それはまだ過渡期だから。
でもこれから、「あと数十年もローンのために満員電車に揺られるのか」から頭を切り替えた人が増えているのではないかと思います。
例えば在宅ワーク。
すべての人ができるわけではありませんが、働き方の多様化の表れになっていると思います。
そして、資本主義への疑義。
大量生産、大量消費、そして大量廃棄、資本主義であろうとするとどうしてもそうなってしまうのでしょう、けれどもそのことで気候や環境が、回復不能にまで追い詰められている。
先ほどの「ブルシットジョブ」も、「大量生産、大量消費、大量廃棄の資本主義」から生み出されてきたものでしょう。
いわば、持ちつ持たれつの関係にある。
「もっと人間らしい生活がしたい」という欲求は、ずいぶん昔からあったように思いますが、見た目の生活が便利に豊かになる中で、すなわち資本主義が進化する中で、からめとられてきたように思います。
1980年代の中ごろ、24時間開いててよかったコンビニが広がる中で、とあるコンビニのテレビコマーシャルにこんなのがありました。
都会で、たぶん東京、会社務めをしている慶子さん(仮名)が真夜中に「いなりずし」が食べたくなってコンビニに買いに行くのです。
そして「いなりずし」を買ってコンビニを出る慶子さん(仮名)がこうつぶやくのです。
「こんな私を好きになりたい」
真夜中に何か食べたくなったら、我慢しないでもコンビニがある。ためらうことなくコンビニに行って買ってしまう(そして食べてしまう)。そして、そんな自分が好き(肯定)なのだと。
こうして、資本主義は強く広く進展していったのでしょう。
もちろんコンビニに限りません。
そうした「それが当たり前」に今「言うほど当たり前でもなかった」疑義が突きつけられているのではないでしょうか。
どんな難問も、資本主義が何とかしてきたから今回も資本主義がその枠内で何とかしてくれる、との楽観は通じない。
それぐらい根源的な変革なのだと思います。
なので『シンニホン』よりは『「人新世」の資本論』が、指針を得るにはおすすめです。