日記を書くときに、事実と感情を分けてみる

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

肌寒いくらいの夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

最近、ほとんどスマホの「スマートニュース」「Youtube」「天気予報」で外部との接触が完了している俺。

 

あまりにも、世間が狭いよね。

 

「葦の髄から天井を見る」ということわざがあって、これは要するに、ストローみたいなもので天井を見て、それで天上全体を見た気になっている、という見識の狭さを言い表したものです。

 

我々のほとんどが、ストローでもって対象物を見て、あれはああだこうだと議論している。

 

でも考えてみたら、そうするよりほかに方法がない、といった現実もあるのではとも思ってしまいます。

 

世の中の現実を360度何から何までつぶさに、しかもあらゆる意見に目配りして報じることなど不可能。

 

そんなことをしたら、膨大な情報量になってしまい、ニュースを見るだけで1日が終わってしまいそうです。

 

自分が見ているのは現実のわずかな部分である、という自覚が必要なのでしょう。

 

自分の今日1日だって、頭の中で再生すると、いつの間にか「ダイジェスト版」に編集されてます。

 

脳は、すべてを覚えるのではなくて、適当に取捨選択をし、また勝手な要約もし、今日1日の出来事をコンパクトにまとめているのです。

 

ですから、自分にとって必要な事柄が、もしかしたらダイジェストにされる過程でゆがんで記憶されているかもしれません。

 

いわゆる「認知のゆがみ」といったものは、何も特別なことだけに適応されるのではなく、ふだんから、脳のスタンダードな機能として働いているのでしょう。

 

自分がものごとを見たり感じたりするうえで、どのような「癖」があるのか、知っておくのは大切なことです。

 

今日1日を振り返って、事実と感情を分けてみましょう。

 

「あの人がああだったから頭にきた」といきなり感情にまでいくのではなく、まずは何があったのか、事実だけにとどめる。

 

例えば「挨拶をしたのに無視された」とか。

 

でも、まだ「判断」が入っていますよね。

 

事実は、「挨拶をしたのに相手からは何も返って来なかった」

 

でもさらに、「何も返ってこなかった」というのも判断かも。

 

相手の返しが自分に聞こえなかったのかもしれないし、相手はその時別のことで頭がいっぱいで、軽く頭を下げたのかもしれません。

 

でもそれが、その時の自分にはわからなかったのかも。

 

こうやって、「今日だれだれさんに挨拶をしたけど無視された、頭に来たなあ」というあまり楽しくない記憶も、細かく見ていけば、「果たしてそう感じるだけが正解か」と振り返ったり、別の可能性とかそもそもの捉え方自体に他の解釈がありはしないかと、多様に考えられると思います。

 

そして、細かく「腑分け」していく中で、波立った感情も凪いでくると思います。

 

性急に、今日の出来事に価値判断やお決まりの感情をくっつけるのではなく、事実は何だったのかと見ていけば、また違った解釈もありうるのだと知れるでしょう。

 

自分はどんな事実にどういう気持ち、感情を抱きやすいか、自分なりの傾向も見えてくると思います。

 

自分なりの傾向が見えたら、その対策も取りやすくなるのではないでしょうか。

 

感情に任せて、感情語を書きなぐるのもおススメですけど、事実だけを取り出したらどうなる?と自問しながら何があったのかを捉え直すのも必要かと思います。

 

強い、マイナスの感情につかまらないで、うまく手なずけたもの勝ちですよね。