仏教の教え「一切皆苦」と「やりたいことリスト」
こんにちは。
てらぴーだよ。
もう半袖ではないなの夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
仏教の教えるところによれば、諸行、すなわちあらゆるものは、無常つねならぬものであり、一切皆苦、すなわち、すべては「苦しみ」なのだと。
な、何だってー!?(初期の小池龍之介)
すべては移り行くもので、少しもじっとしていない。
これはまあ分かります。
しかるに、一切がことごとく「苦」だなんて。
苦しみしかないのかよ。いや、でも、そこはかとなく快楽や楽しみや幸せもあるんじゃないの?と反論もしてみたくなりますが、そこはお釈迦様が悟られた真実。
そんな簡単に「論破」とはいかないようです。
この「苦」は、「ドゥッカ」という言葉の漢訳らしいのですが、そもそもの意味が「ままならぬ」とか「思い通りにならない」、つまりは、自分に主導権といいますか、コントロール権がないということらしいです。
「苦しみ」とはあまり関係がない。
でも、自分の自由にならないのだったら、時と場合によっては、たいそうな苦しみにもなるでしょうに。
確かに考えてみますれば、この世は自分の自由にならないことばかり。
今宵も早く帰宅したかったのにそれもかなわず、PⅭを立ち上げれば素直に動かず、おまけに我が身の一部であるはずのこの脳みそも、思うようには動いてはくれません。
何か気のきいた文章でもといつも思案するのに、わが意に反して駄文ばかりが画面上に現れる始末。
あれ、おかしいな、もっと格調高くしかもウィットやらユーモアやエスプリのきいた文章になるはずなのに、どこでキーを叩き間違えたのだろう。
自分にコントロールできるものは何一つないのでした。
それでも、少しは主導権を握ろうと、スケジュール帳を開いては、自分が自由になる曜日時間帯を確認。
傍らの野帳にて、やりたいことをリスト化しつつ、1週間に配分していくのです。
こうした計画も、自分の意図とは関係なく、そうなってしまったものと見なせましょうけど、せめてこれぐらいは、「自分で決めた」と思いたいもの。
それでも、よくよく考えてみたならば、やはり「自分で決めた」とはいかないものなのでしょうか。
自由などないのだとしたら、手帳に記すあれやこれやは誰からのもしくはどこからの「指令」なのでありましょうか。
それこそが「因縁」?