デジタルな時代に、手書きが望まれている
こんにちは。
てらぴーだよ。
これから秋なのだの夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
コオロギが鳴いています。
鳴いているどころか、さっき小さいのが部屋の中を飛び回っていたので、タオルで包んで、外に放してやりました。
油断か隙があったのでしょう。
秋に鳴き声が聞こえてくるのはコオロギ。
童謡『虫の声』によれば、「松虫」とか「鈴虫」、「くつわむし」なんかが鳴いているのだけれど、今ではコオロギ一択ではないか。
いったいコオロギのどこに生き残りの戦略があったのか。
もしくはほかの虫の何が、滅亡へと進む要因となったのか。
秋の夜長をかつて鳴き通した虫の声だけど、日本人には風流に聞こえるのに、西洋人にはただのノイズと化すらしい。
すべては脳による情報処理の違いなのだそうだ。
同じ音、波なのにね。
その波動が、脳内で変換され、音となるかノイズとなるかが決められてしまう。
もしかしたら、同じ手書きの文字でも、見る人によっては、味わい深い筆跡と見えるか、もしくはただの落書きとみなされるか、違ってくるのかもしれない。
文字の連なりを、映像のようにとらえるのもありだろう。
文字は、どこまで崩したら、文字でなくなるのだろう。
昔の作家の中には、ものすごい悪筆の人がいて、その編集者でないと「解読」できない作家が何人かいたそうだ。
石原慎太郎さんもそんな作家のひとりだったらしく、「慎太郎番」と呼ばれる「翻訳者」がいたらしい。
書道の世界にも、創作書というのか抽象画のような書の表現がある。
およそ、文字の形を成していなくとも、墨と紙のバランスが表現の世界となるらしい。
これなら、AIもかなうまい。
それとも、データを蓄積すれば、やがて見たこともない「書」の世界がモニターの中に出現するのだろうか。
「のらもじ」という世界もあった。
これは、町のあちこちで見かける看板などの文字から、その文字の特徴を抜き出して「フォント」にしてしまおうというプロジェクト。(下浜臨太郎、他2人『のらもじ』エムディエヌコーポレーション)
手書き風の文字のフォントもいくつかあるようだし、スマホなどでスケジュールを管理したり、スマホで日記を書いたりするときに、手書き風のフォントを使い分けるようになるのかもしれない。
あるいは、手紙を書く際に、そんなフォントを使い分けるとか。
アナログもどんどんデジタルに処理されるようになるのか。
数年前に、「ヒエログリフを書いてみよう」みたいな教則本があった。
みんな、字を書きたがっているのではないか。
デジタルになって、自分の名前さえ、大人になったらなかなか手で書かない。
けれども気持ちのどこかで、手書き文字への渇望は消えてはいない。
消えていないどころか、手書きを求めている。
手帳も、書き込めるスペースの大きいものが、主流となるだろう。
デジタルに置換されようとも、人は手書きを求めている。