時には、歴史の証言者になって「日記」を書いてみる

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

パソコン強制終了の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

2,3か月に1回ぐらいは、パソコンがどうにも動かなくなって、強制終了しているように思います。

 

どこで何がどう動いているのかがさっぱりわかりません。

 

したがって、なすすべがない。

 

故・池田晶子さんも手書き派でした。

 

そうした事実をささやかな心の支えに、今日もブログを綴りましょうか。

 

手帳のスケジュール管理の機能、年間のカレンダーが見渡せるとか、マンスリーやウィークリーで予定が分かるとか、そうした機能はことごとくデジタルに移行しているのかもしれません。

 

でも、スケジュールの中で、デジタルに移行しにくいのが、デイリー、日記なのではないでしょうか。

 

薄くて持ち運びしやすい、カバンの中でもかさばらない手帳に人気が集まる一方で、1日1ページタイプの、1年分だと結構かさばる手帳も人気のようです。

 

代表は、もちろん『ほぼ日手帳』、それ以外にも出ているので、スケジュール管理といったビジネスライクなものより、自分ならではの日常を記録したい、という思いがそこにあるのかもしれません。

 

要は、詳細に今日の出来事を記してみたいとか、思いの丈を書き出したい、といった個人の歴史に、重きが置かれているのでしょう。

 

それなら、何も「手帳」である必要もなく、ノートに書き記していってもいいわけです。

 

ここに、スケジュール管理のための手帳と、自分史担当のノートが分かれて分担をする理由があるのです。

 

脳科学や心理学を持ち出すまでもなく、今は「心の時代」なので、多くの人が、自分の内面への興味や関心を高めているのだと思います。

 

スケジュールをこなす自分だけではない、「素」の、日々の生活と組んずほぐれずしている自分。

 

スケジュールを忘れずに実行する自分も自分なら、毎日の生活の中で、泣いたり笑ったり怒ったりしている自分。

 

誰もがうらやむような大成功はなくとも、些細なことに幸せを感じ、また逆に、小さなことに腹を立て不安になる自分。

 

首尾一貫しているようでしておらず、ハチャメチャ(死語?)のようで筋が通っている、この矛盾だらけの自分。

 

どう見ても、有名人とか歴史に名を残す人ではない、市井の人。

 

でもまあ、そんな自分の日常も、改めて振り返れば、結構波乱万丈だったりしませんか。

 

プチかもしれないけど。

 

きわめて私的な、自分のことしか書いてない日記でも、数十年とか数百年もたてば、それはそれで「当時の貴重な歴史」となることは、「社会史」が教えてくれているとおりです。

 

別に「歴史の証言」たらんと筆を持たなくとも、今日あったあれこれを事細かに感想重視で書き綴ればいいのです。

 

政治や経済、世界の大きな出来事は、何があっても残るでしょうけど、その時代を生きた、市井の人が、どんな思いで毎日を過ごしていたのかなんて、公式の記録とか「正史」には残りませんから。

 

それゆえに、日記というものが、貴重な記録となるのです。

 

時には、数百年後のわが子孫に向けて、日記をしたためるのもいいかもしれません。

 

客観的な記録なんてありませんし、あったとしても無味乾燥でしょう。

 

あなたにしか書けない日記について、思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。