働き方改革の中で手帳もまた再評価されている

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

24時間冷房入れっぱなし2日目の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

昨日ガストで感じただるさは、どうやら冷房病またの名をクーラー病というやつらしいです。

 

冷房にあたりすぎて、あるいは、冷房が効いているところとそうでないところを行き来して、自律神経がおかしくなるみたいです。

 

さすがに昨日の夜からは、ぐっすり眠れるようにと、冷房のスイッチをオン。

 

ただし設定温度が28度。

 

これなら冷えすぎないでしょう。

 

案の定、ゆるやかに冷えてます。

 

仕事場へは、薄手ではあるものの裏がフリースのジャンパーを持参。

 

冷房にあたりながら羽織ってます。

 

考えてみたら、冷房が生活に入り込んだのってごくごく最近でしょう。

 

戦後の経済成長の象徴の一つ、3Ⅽ、カラーテレビ、カー(自家用車)、そしてクーラー。

 

暑いはずの夏に、冷たい空気に包まれるなんて、数百万年の人類史の中ではなかったことです。

 

だから、体がまだ順応していないのも無理はありません。

 

ていうか、こんなところでエネルギーを消費しないで、汗をかこうよみんな。

 

もしくは、おフランス人のように、長期のバカンスに出るとかして、暑い時には仕事をしない、という文化を根付かせたほうが、体にもエネルギーにも優しい。

 

いつでもどこでも同じように働ける環境が整備されたおかげで、24時間働くという文化が生まれてしまったわけですが、「暑い時は仕事にならない」とか「気温が30度を越えたら仕事をしてもさせてもいけない」といった、新しい文化を模索したほうがいい時期に来ているのではないでしょうか。

 

もっとラディカルに「働き方改革」が進みますように。

 

とはいうものの、今しばらくは、移行期にして混乱期。

 

新しいアイデアと、これまでのやり方のせめぎあいで、落ち着かない状況も見られることでしょう。

 

テレワークが広がる一方で、これまでのやり方がよかったという意見ももちろんあって、定着までにはまだ時間がかかると思われます。

 

意外だったのが、紙の手帳が見直されてきたこと。

 

デジタルな中に、アナログな紙の手帳と手書きが、再評価されているのです。

 

やはり自分の体という自然を介した作業に、引かれるものがあるのかもしれません。

 

スケジュールを一つ書くのにも、そのスケジュールを書こうと思い立つ、手で手帳を広げる、紙の感触が伝わる、ペンを持つ、字を思い出しながら手で書き込んでいく、それを目で追って確認する、ペンを走らせる感触を感じる、耳でもかすかな音を捉える、などといった体の動きや脳の働きが、一つの作業に組み込まれているのです。

 

手帳を開いてスケジュールを書いていくことの中に、人類数百万年の成果が表れているのです。

 

暑い夏が終わると、手帳の季節。

 

これはこれで熱いドラマが展開しそうです。

 

ガストでドクターペッパー(メロン)を飲んだあたりから夏バテ?

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

満月の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

ぽっかり月も出てまして、今夜は満月日和です。

 

感染者が二けたの石川県で、観光地は人でいっぱいのようです。

 

政府主導でオリンピックも始まったので、もうだれも止めることができません。

 

一抹の不安を残しつつ、ロシアンルーレットのような観光そぞろ歩き。

 

今日の午後、部屋にいると拷問並みに暑いので、自転車を駆って、少し遠くの「ガスト」に避難しました。

 

確かに外は暑いけど、時折り涼しい風も吹いて、「なんだ、まだまだだな」と余裕をかましていたのです、このときはまだ。

 

ガストに着いて、いつものモワルーショコラ(フォンダンショコラみたいなやつ)とドリンクバーを注文しました。

 

で、さっそく、ドクターペッパーメロン味というのを生まれて初めて味わったあたりから、調子がガクンと落ちました。

 

だ、だるい。

 

そして、やる気が起きない。

 

入店したばかりなのに。

 

それとも、そこそこ好きなドクターペッパーではあったが、メロン味がくせ者であったのか!?

 

一方で、もう冷房にやられたのかと思い、こんなこともあろうかと持ち込んでいた冬用ではあるものの薄手のジャンパーを羽織りましたが、体調のみならず、思考力も動きません。

 

それに、やたら眠い。

 

せっかく読書や書きものをしようと、あれこれリュックに詰めては来ているのに。

 

何一つとして手が付けられません。

 

ただただイスというかソファに体を沈めているのみ。

 

かと言って、ドリンクもドクターペッパー(メロン)とダージリンを飲んだくらいだし、モワルーショコラもまだ残っています。

 

時刻としては、午後の炎天下タイムだし、外に出たくはない。

 

仕方がないので、体調が回復するのを「じっと我慢の子であった」(大塚のボンカレーのナレーションより)

 

さすがに、冷たいドリンクは避けたけど、お茶っ葉で淹れられる紅茶、特にダージリン一択なのだが、そのダージリンだけは何杯かお代わりをしました。

 

けれども体調は一向に回復しません。

 

どこかがしんどいというのではなく、やる気が出ない。

 

コーナーの自分の椅子に座りこんで白い灰になった矢吹ジョーさながらに。

 

もしかして、一足早く「夏バテ」?

 

これからが夏本番で、まだまだ暑くなるのに?(いや、暑くはならなくてもいいけど)

 

というわけで、ガストの一画、周りが仕切られて準個室のような、二人掛けのテーブル席でジャンパーを羽織ってうずくまっていた私。

 

結局のところ、時間だけが過ぎていきましたとさ。

 

ダージリンは、おいしくいただけたので、味覚異常はなし、したがって感染もなしでしょう(素人判断)。

 

それにしても、暑さを避けて、少しは知的なことをしようとたくらんだのに、こんな形で裏目に出ようとは。

 

冷房が効いたカフェで(ガストでしたが)、読書をしたり、野帳に書きものをしたり、ノートを広げて図解なんぞをしたり、と思ってたのに。

 

思わぬ夏バテ?で、ショコラと紅茶の、単なるおやつの時間となりました。

 

こんな日もあるさ。

 

長めの散歩を再開したよ、脳に新たな刺激を

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

今季初蚊に食われた夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

下着姿で寝転がっていたら、両足の甲辺りを2か所、刺されたようです。

 

それにしても毎年思うのは、蚊のお母さんが必要な血液って、わずかなものでしょう。

 

1ミリリットルの10分の1、0.1ミリリットルでも十分ではないのか。

 

それぐらいなら、分けてあげないこともないので、あの「チクッ」とする刺し傷(実際は裂いているそうです)、「プ~ン」という超音波、それから、血液の採取とは関係のない唾液によるかゆみを何とかしてほしい。

 

特に「かゆみ」だ。

 

聞くところによると、あのかゆみは蚊のお母さんのだ液によるものだそうだが、なんでわざわざそんな、人類を敵に回すようなシステムに進化したのでしょう。

 

あのかゆみさえなかったら、プ~ンと飛んできても、ああ、やってきたのかい、今年もそんな季節か、まあおあがり、てな具合でこちらもそれなりの対処もできように。

 

あ、もう一つ、一部の蚊のお母さんですが、日本脳炎などの病気の媒介もいただけません。

 

殺虫剤に耐性ができたせいで、昔に比べ蚊取り線香などはずいぶんと強力になっているとも聞いてます。

 

そんなところを進化させるより、「チクッ」「プ~ン」「かゆい!」を何とかしてください。

 

というわけで、この攻防、まだまだ続くのでしょう。

 

暑いというよりは、熱い日中に散歩に出るのは自殺行為、と思い、夕方久しぶりに長距離の散歩に出てみました。

 

およそ1時間半歩いたのですが、うすぐもりだったせいか、暑くはなく、汗もそれほどかきませんでした。

 

体を動かすことで、脳にもいい影響を与えられそうです。

 

机やテーブルに向かい、ほとんど動かないでいると、頭の働きも静まってきそうです。

 

実際手帳を開いても、ノートを広げても、何も浮かんでこない。

 

頭の中が空っぽになっているようで、でも座りっぱなしだと、新たな刺激はありません。

 

そこで体を動かすことが、刺激にもなり、また、脳への血流を増やすことにもなるのでしょう。

 

それにしても、言葉はどこから来るのか。

 

思い付きの断片みたいのが頭に浮かぶこともあれば、長い文章のカタチで湧き上がるときもあります。

 

言葉が次から次へとあふれ出てきて、書き止めるのが間に合わない時もあれば、頭の中のどこを探しても、ことばの「こ」の字も見つけられない、そんな時もあるのです。

 

いつも繰り返し考えていて、今日はそのことを書こうと「呼び出す」時もあれば、最初の書き出しに引きずられて、ことばや文章が続く場合もある。

 

この時は、頭の中にストックされていたというよりは、新たに次から次へと生まれてくるといった具合です。

 

そして、何も浮かばない時もある。

 

けれどもそういう時期が続くのも嫌なので、何かしらの刺激を脳に与えて、ことばや発想を引き出したい。

 

足は第2の脳、なんて言ったりしますから、歩くことで刺激を与え、新たな発想や言葉、文章などが降りてくるかもしれません。

 

自分の足に期待しましょう。

 

成長してたと思ったが、なかなかにそれはむつかしく、

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

涼しい風が吹いてくる夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

日々の行動やその時の気持ちなどを日記のように「野帳」に書きつけています。

 

時には、「ホンネ」を湧き上がるに任せたまま、書きなぐることも。

 

言ってみれば、自分の、ありとあらゆる記憶なのです。

 

そうした記憶の集積が、今現在の自分を作っている。

 

また、日々同じようなルーティンを記しているようで、事態は、つまり運命といったものも動いているのでしょう。

 

単なる情報を書き連ねることもありますが、それも自分が選んだものなので、やがては何かしらの栄養となって、自分の一部へと、消化吸収されていくのです。

 

ですから、自分の日々を詳細に記した手帳や日記、ノートの類は、まさに自分のレシピとでも言うべきものなのかもしれません。

 

もちろんそこだけで自分が成り立っているわけでもないでしょうけど、自分の関心の在り様や、どこに向かっているのかの方向性は、垣間見えるのかもしれません。

 

同じようなことを日々書き記していても、そこに若干の違いが生じたり、微妙な違和感のようなものが混ざってくる時もあります。

 

そこに、何らかの進化があればいい。

 

日々同じようなことを繰り返す中で、少しでも成長していたい。

 

ただ年取っただけ、というのは避けたい、と思いながらも、何が自分にとっての成長であるのか、いまだはっきりとしたものは分かりません。

 

体の成長はとうに終わり、この先、体重が変化することはあっても、背が伸びることはないでしょう。

 

知識の量については、増やすことはできますが、単なる物知りに終わらないよう、気をつけなければなりません。

 

とはいうものの、何をどうしたら、知識が教養へと変わるのか、こちらも思案のままです。

 

心の成長は、はっきり言って、一進一退を繰り返しております。

 

日々いろんな気づきがあるはずなのに、手元に残るものの何と乏しいことであるか。

 

怒らないようにしようと心に決め、うまくいっても、その次の日には世間を、あるいは相手を呪っていることなどしょっちゅうなのですから。

 

いったい何を学んできたのか。

 

ぐるぐると、同じところを回るように見えて、実はらせんのように少しづつ上昇していた、と思っていたのに、自分の描くらせんは、立体構造ではなく、二次元でありました。

 

と、半ば自虐を込めて書きましたけど、成長をあきらめたわけではありません。

 

体も、身長こそはあきらめてますが、筋力はつけようともがいてます。

 

自分の体は、日々食べているもので作られていくように、頭も心も日々のインプットで作られたり更新されていくのでしょう。

 

ならば「今」が、自分史上最高の自分のはず。

 

あれ?どこで道を間違えたんだろう。

 

「ブルシットジョブ」と資本主義、もうそろそろだよね

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

自分の存在がどうでもよくなってきた夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

「ブルシットジョブ」(くそどうでもいい仕事)というのが話題です。

 

世の中には、その仕事がないと人々の生活が成り立たない仕事と合ってもなくてもいい仕事があるようなのです。

 

いったい、いつからこんな社会になったのでしょうか?

 

昔は、ものを作る人は、ほとんどそのものを売る人であったと思います。

 

生産者が販売者であったわけですね。

 

それが、個人商店ではなく会社組織となり、作業も細かく分担化されていくにつれ、あるいは雇い入れた従業員を働かせるために、新たに部署を増設していくにつれ、「どうでもいいような仕事」が生まれてきたのでしょうか。

 

現場でモノを作ったり、現場でモノを売ったり、現場でサービスをしたりという方々は、なくてはならない仕事なのでしょう。

 

けれどもそれらを監督するとか、部門と部門の連絡係のような立場の人は、いてもいなくてもさほど変わらないのかもしれません。

 

とめどない業務の細分化が、いつしか「ブルシットジョブ」を生み出していったのでしょう。

 

けれども採用にあたっては、必要と思えたから採用したので、なかなかに「あなたは必要なくなりましたからおやめください」とも言えないのでしょう。

 

時折り、大企業であっても、退職を迫る部署の存在が漏れ伝わってきますから、現実の実態は凄惨なものがあるのかもしれません。

 

お給料には「ガマン代」というのが含まれているのだよ、だなんて、まことしやかに語られたりするのは、健全なことではないでしょう。

 

勤め人、サラリーマンは、農林水産の第一次産業から見たら、毎月お給料日には決まった額のお金がもらえるという点で、人々を、引きつけたのに相違ありません。

 

けれどもそれは「戦後」の話。

 

それの、その「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」の時代はとうに過ぎ、お給料は上がらず、リストラはされるかもしれず、先行き不透明な環境が、もうかれこれ30年ばかり続いているのです。

 

そして、「ブルシットジョブ」だなんて。

 

働き方だけでなく、我々を取り巻く大きな機構、資本主義もが、「リストラ」の対象になったというべきでしょうか。

 

いましばらくは混乱が続くでしょうけど、おそらくここで資本主義を見直すのか、それとも結局のところは問題点も何もかも、資本主義が飲み込むのでしょうか。

 

地球環境を守るはずの「レジ袋削減」も、資本主義の前では、「エコバッグ」という新たな市場を生み出したにすぎません。

 

どんなトピックも、大量生産大量消費の前では、市場化するのは避けられないと見えます。

 

けれども今回の見直しは、少し気合いが入っていると思われます。

 

なぜなら、環境問題が、本当に差し迫った問題として立ちふさがっているからです。

 

斎藤幸平さんの提言が、より広く、より深く届いて欲しいと思います。

 

もしかしたら、私たちの生活の在り様が、「ブルシットジョブ」を生み出しているのかもしれません。

 

「消費者の要求に応える」という名目のもと、「どうでもいい仕事」が生み出されているのだとしたら、私たちも加害者ではないですか。

 

こうした持ちつ持たれつが、「ブルシットジョブ」を支えているのかもしれません。

 

コロナ禍で、「ブルシットジョブ」についてはよくわからずとも、「我々の生活を支えてくれている大切で必要な仕事」については、十分わかってきたのではないですか。

 

そうした、どんな時代になろうとも、必要な仕事を中心に資本主義を見直してみましょう。

 

案外、なくてもなんとかなりそうではないですか?

 

これからは、「不便が必要」な時代になるのかもしれません。

 

怒りがおさまらず、脳内バトルが繰り返される

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

セミの声も聞こえだした夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

何か対人関係で、いやなことがあったその後で、頭の中つまり脳内で、相手を論破したりやり込めたりして、憂さ晴らしをしている自分に気づくときがあります。

 

そうでもしないと、あまりにも自分がかわいそうだったり、腹の虫がおさまらなかったりするので。

 

でも、そうした脳内の必ず自分が勝つ「ケンカ」は、脳にしてみたら、本当のケンカと同じようなものなのかもしれません。

 

つまり、頭も体もそれなりに興奮する、という点で。

 

なので、アドレナリンだか何だかが、以上に分泌されて、本物のケンカ並みに疲れたりダメージを与えたりするのでしょう。

 

「怒り」は仏教でいうところの「三毒」の一つ。

 

よいことなど何一つありません、とはわかっていながらも、理不尽な仕打ちには、体や頭が反応してしまいます。

 

数週間前、青信号を自転車に乗って渡っていたら、右折してきた車に思いっきりクラクションを鳴らされました。

 

思わず信号を確認しても青。

 

運転していたおっさんは、手で早くいけポーズ。

 

瞬間頭が沸騰しましたけど、その場の罵詈雑言には弱い自分。

 

でも、気持ちがおさまるわけもなく、後から思い出しては、こんな風に言えばよかったとか、自転車を投げつければよかったなど、空想と現実がないまぜになった「妄想勝利劇」を絶賛上映中にしてしまうのです。

 

もちろんその映像の中では、自分がヒーローであり、必ず相手をコテンパンにするのです、毎回。

 

でもこれって、思い出すたびに体になにがしかのダメージを与えているっていうことなのかも?

 

それでもなかなかに、脳内の罵りとか罵倒は、やめられないのですけど。

 

自分が未熟者なのだ、ということで反省しても、ではどうすればよかったのか、何事もなかったかのように悠然とあるいは泰然と構えていれば、って、それができないから困っているのであって、でもその代わりに相手を脳内でコテンパンにするのもどうかと思うはいはいその通り、って、今度は脳内で自分対自分が始まってしまう。

 

疲れるし、後味もよくない。

 

許すとか手放すという手法もあるみたいですが、余裕のある時はそれができても、できないでいきなり脳内バトルに展開してしまうこともあるのです。

 

「7秒待つ」といったノウハウも知ってはいますが、怒りの導火線は長さがほとんどゼロ。

 

火がともったと思った次の瞬間ドカン!

 

未熟者の脳は、7秒待ってくれません。

 

「今頃そいつ、パフェでも食ってるよ」といった、視線の変換もありますし、なるほど、自分だけがいつまでも怒りを鎮められないのは、傍から見てても滑稽なのだな、と一応の理解というか了解はしてみるものの、それとこれとは話が別とばかりに、脳内のバトルはおさまらないのです。

 

そしてやってくる自己嫌悪。

 

たとえ脳内のバトルに勝利しても、何の誉れにもなりません。

 

ただただ未熟な自分がいるだけ。

 

こうして、自分をすっきりさせたかったのに、自己評価が下がりっぱなしとなるのです。

 

せめてはこうして文字にして、少しでも「見える化」をすれば、気分も落ち着くのではないかと思います。

 

しばらくしたら、また、ぶり返すんですけど。

 

なので、僕の怒りの発露の先には、こんな立札が立っているのです。

 

「振り出しに戻る」

 

コーヒー豆を新調しました、「ゴールデンマンデリン」

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

体の輪郭が崩れてきそうな蒸し暑い夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

コーヒーの粉を新しく買い求めました。

 

そこのコーヒー屋さんは、サービスで試飲ができます。

 

今日の試飲は「ゴールデンマンデリン」。

 

韻を踏んでいるのかいないのか微妙なネーミング。

 

試飲の際、「ホットですかアイスにしますか」と聞かれましたが、ホット一択でございます。

 

暑いときには熱い飲み物。

 

これがいいんですよね。

 

反対に、寒い時の冷たい飲み物はいただけないのはなぜでしょう。

 

試飲のは、コクもくどくなくて、むしろすっきりとした味わい。

 

苦味もそれほど前面に出てきてません。

 

というわけで購入決定。

 

1日の内に、落ち着いてコーヒーを味わえる時間を持つというのも、大人のたしなみでしょう。

 

また一歩、大人に近づいた。

 

とは言え、それほどコーヒーの味が分かっているわけでもありません。

 

それでも「ああ、うまいな」と思えることで、コーヒー好きを標榜しているのです。

 

専門的には、コーヒーマスターの認定制度とか認定試験なんてのがあるのでしょうけど。

 

素人の基準は「うまい」か「まずい」か。

 

それには、コーヒーそのものにプラスして、カップであるとか、周りの雰囲気であるとか、特にテーブルや床、壁などの色調ですとか、あるいは誰と飲むのかといった環境や条件も、大切な「味覚」の要素となるのでしょう。

 

コーヒーだけを味わっているのではないはずです。

 

傍らに、読みかけの本があるとか、手帳が置かれているとか、ノートが開かれてあるとか、そんな状況もまた、コーヒーの味わいを左右するのかもしれません。

 

時と場合によっては、インスタントのコーヒーでも、十分においしかったりしますし、ハンドドリップで淹れてもらったはずなのに、十分に味わえないこともあるに違いありません。

 

コーヒーは、コーヒーだけで、完結するのではないのです。

 

カフェでいただくにしろ、自宅で飲むにせよ、手帳などの小道具もまた、控えていてほしい。

 

コーヒーで頭を潤いさせて、これからの日程や自分時間の過ごし方などを勘案するのが、至福の時間となるでしょうから。

 

コーヒーの覚醒効果のおかげで、何かしらの思い付きもまた、湧き上がるようにも思われます。

 

ですから、カフェに行ってスケジュールを中心に自分会議をしようと思うだけで心ときめくものがありますし、自宅で思案中の時に、コーヒーを淹れようというのは、ブレイクスルーの兆しをほのめかすものです。

 

いずれにせよ、コーヒーブレイクは、思い立っただけで、その効果を見せ始めるのです。

 

こんな飲み物はコーヒーだけでしょう。

 

メロンソーダも人気ですけど、どこか軽薄に流れそうです。

 

これからしばらくは、ゴールデンなマンデリンで、重厚で実り多いひと時が持てるのです。

 

苦味を「うまみ」に迎え入れた先人の努力に感謝しましょう。