小学生の鉛筆、HBから2Bが主流に、でもその理由ときたら、

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

冬の装いで自転車に乗る夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

今日の気温差って、どれだけなんだろう?

 

日中は日向ぼっこができるほどなのに、夜は冷え冷えとして、冬物仕舞ってなくてよかった。

 

 

「雪が降ってきた、

 

ノートの字が濃くなる」

 

 

という内容の詩があったように思う。

 

でも、最近のお子様は、暖房が効いた室内にいらっしゃるので、外気温と連動した室温の家屋など、想像できないのかもしれません。

 

小学生の、特に1年生の鉛筆が、従来のHBから、2Bに変わっているというニュースを見ました。

 

小学校の謎ルールの一つに、「シャーペンの禁止」があると思いますが、そのため、小学生の筆記具は、鉛筆一択。

 

ドイツでは、小学生のころから万年筆でノートを取るらしいです。

 

でもさすがに、近代日本も、そこまではマネできなかったようです。

 

というわけで、小学生は鉛筆。

 

その黒さ、というか硬さ、濃さを表すHB(ハード・ブラック)が長い間、標準でしたけど、最近では、より柔らかい2Bが、小学生の鉛筆の主流になっていると言うのです。

 

やわらかく、濃い字が書けますので、学習効果も高まるのでしょう。

 

大人の世界でも、ユニボールワンのヒットに見られるように、インクがじわじわ出て、濃い字が書けるボールペンが人気なのですから。

 

実際に、濃い字の方が記憶に残り安いそうですよ。

 

それに、柔らかい字になるということは、消しやすい、ということでもあるのでしょう。

 

実際、HBで書いた文字に比べて、2Bで書いた文字の方が少ない力できれいに消すことができるので、特に文字を書くことを学び始める小学1年生の鉛筆の濃さ、硬さとしては、申し分ないのでは、と思っていました。

 

でも、その理由を聞いて、しばし考えこみました。

 

なぜなら、HBが2Bに変わったのは、濃い文字が書けるということよりも、もっと肉体的なことだったから。

 

それは、腕の筋力がなくなったためらしいのです。

 

なくなったというよりは、(力が)出せなくなった、衰えた、ということなのでしょう。

 

その原因は、腕の筋肉を使わなくなったから、というのです。

 

まったく使わないというのではないでしょうけれども、筋力の低下かよ、と思ってしまいました。

 

かつて、小学生の体の変化で、雑巾が絞れないとか、ホウキをちゃんと使えないとか、転ぶとき顔から地面に突っ込むとか、いろいろ言われてきましたが、また一つレジェンドが加わったのでしょうか?

 

腕使えよ。

 

日常生活で、そんなに使わなくなっているのでしょうか?

 

俗に「箸より重いものを持ったことがない」なんて言いますが、そんなに大切に扱われておいでなのかしら。

 

かつての中国で、「一人っ子政策」が盛んだったころ、お子様は「小さな皇帝」と呼ばれていたとか。

 

わが国でも「小さな皇帝」が、生まれつつあるのでしょうか?

 

AIに負けないために、人間に何ができるのかといった議論が盛んですが、テクノロジーで代替できるとしてもしてはいけないものがあるはずです。

 

その一つが「紙に手書き」だと思うのですけど。

 

このままどんどん鉛筆の柔らかさが上がって行って、2Bが4Bになり、4Bが6Bになっていくのでしょうか。

 

それとも、腕に装着して筋肉を補助する「パワードスーツ」ならぬ「パワードハンド」が開発されるのでしょうか?

 

小学校に上がる前に、筋トレが必要なのかもしれません。

 

時には、「余命1年」だと思って、未来を考えてみる

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

何をするでもなく迎えた夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

何をするでもなく、暮れてしまった夜。

 

こんな日もあると、自分を慰めつつ、でも、1日損をした気分。

 

あれをすればよかった、あそこに行けばよかった、でもしなかったのだから、すべては自分のせい。

 

無為に過ごすと、手帳や日記に書くことがなくなるだけでなく、打ちひしがれた感情に包まれてしまう。

 

「何かを為さねばならない」という強迫観念。

 

でも、毎日、高い意識で前進するのもどうか。

 

それに、そんなに前進もできまいて。

 

せめては、今日できたことを数えて、1日の終わりとしましょうか?

 

朝目が覚めた、から始まって、布団をはねのけた、立ち上がり着替えた、昨日のご飯だけど、朝食をとった、などなど、細かく見ていくと、「何にもしなかった日」にしては、いろいろ動いてます。

 

今日がまるまるお休みなら、着替えてなくても大丈夫だし、食事も不定期で、とりあえず腹が満たされれば良しとする。

 

そういう「ゆるい」1日もまた、何かしらの「栄養」になることだろう。

 

マイナスのアクティブ。

 

予定などをバリバリこなすのもいいけれど、ふと立ち止まったように、あるいは充電しているがごとく、なるべく動かないで自分の内面に降りていくのもあり。

 

よくある質問で、「余命1年と言われたらどうしますか?」というのがあるけれども、次の予定がなく、だらだらしがちな日には、そんなことを考えるのもいいかもね。

 

例によって、大判のノートを広げて、向こう1年でできそうなこと、やってみたいことなどを、具体的も抽象的もごちゃ混ぜにして書き出してみる。

 

きちんと書こうとか、箇条書きにしようとか、マインドマップみたいにしようとか、形式もどうでもいい。

 

とにかく頭に浮かぶまま、手が動くままに書いてみる。

 

案外書けなくて、ほどなく手も頭も休止状態になるかもしれません。

 

でも気にしないで、途中でやめてもオッケー。

 

ノートを開いたままにしておいて、また気が向けば書けばいい。

 

これからどうしたいのか、なかなか浮かばなかったら、これまではどうだったかを思い出してもいいでしょう。

 

幼稚園前ぐらいの時、何に夢中だったのか。

 

小学生の各学年で、どんなことにはまっていたのか。

 

中学では何に心惹かれていたのか。

 

高校生の時はどうか。

 

といったふうに、今まで何に夢中になる人生だったかを思い返していくと、自分の傾向が分かるでしょう。

 

その中には、以前は好きだったけどやめてしまっていて、でもまた始めたい、ということもあるのではないかと思います。

 

「余命1年」を、どうデザインしますか?

 

あれもこれもと詰め込むのは難しく、セレクトしないといけない。

 

あんまり長丁場な、3年かけて英会話をぺらぺらに、というのも今回はなし。

 

時には、来週の予定を確認するというルーティンから離れて、向こう1年を考えてみることも、「今」を充実させるスケジューリングになるかもしれません。

 

1年で、どれだけの成果を得られるのか、どれだけ周りの景色を変えられるか。

 

1年後、どこにいるか。

 

そのための今月であり、今週になっているか。

 

コロナの時代だから、考えづらいところはあるでしょうけど、それだからなおさら、自分たちの生活に何が必要で、何はなくてもいいのかを根本からとらえ直してみるのもいいかもしれません。

 

コロナ禍が突きつけているものは、結構深いところまで見えるようにしてくれていると思うので。

 

書く前に読む、それと、図書館の勧め

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

PⅭが不調の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

書くためには、読まなければならない。

   

言葉の数を増やしたり、ものの見方を広めたり深めたりするのに、他人の書いたものを読むという経験は必須のものでしょう。

 

自分の思考の浅薄なことにも気づけますしね。

 

東京にいたころは、古本屋を中心に、「買う」派でしたけど、経済的に本代を潤沢に出せなくなってからは、「図書館」派になりました。

 

たいていの公立の図書館は、2週間10冊借りられます。

 

当初は、読みたい本だけ借りていましたが、返す段になって、「あれ、今回この図書館からは何冊借りたんだっけ」と図書館の複数使いをしているものだから、混乱してくるのです。

 

そこで、どの図書館でも、5冊と決めることにしました。

 

これなら、記憶力その他に負担がかからないと思ったから。

 

そのうち、ちゃんと読めないのに、10冊借りるようになりました。

 

ついでだし、タダだし。

 

でも、10冊と決めて借りるのも、なかなか難しかったりします。

 

何でもいいから10冊、というわけにはいきません。

 

もちろん、すべてを隅々まで読めないのですけど、数合わせのように、「あんまり興味がわかない本だけど、まあいいか」と思って借りた本が、どストライクなこともよくある話なわけです。

 

無理やり10冊にすることで、思わぬシナジー効果が出ているのでしょうか?(多分違います)

 

図書館のいいところは、書店に並びそうもない良書に出会えるところでしょうか。

 

スペースなどの制約で、新刊本の書店に並ぶのは、売れ筋の本ばかり。

 

発行部数が少ないものや、弱小出版社の作品は、まずお目にかかれない。

 

でも図書館なら、ベストセラーでなくても、無名の新人でも、お値段多少お高くても、購入してくれたりするのです。

 

書店では起こりにくい出会いが、図書館にはある。

 

だから、図書館通いはやめられません。

 

よく借り出されて、ボロボロに近い状態の本や、クッキーを食べながら読んだでしょ?と推察できる本もありますが、そこはご愛嬌ということで、我慢しましょう。

 

何度も借り出す本や、これは手元に置きたい本が見つかったら、その時に購入すればいいのです。

 

たぶん何度も繰り返し読む本とか、手元に置いておきたい本は、トータルで数十冊レベルなのではないかと思います。

 

読み飛ばしていい本もあれば、じっくり読まないといけない本、抜き書きをしながら読みたい本など、いろいろです。

 

もちろん自分にとって、読まなくてもいい本というものもあるでしょう。

 

時間は限られているので、コース料理をすべてデザートまで含めてみんな、平らげるわけにはいかないのです。

 

消化能力には、限りがあるからです。

 

でも、食べ物と違うのは、食べ続けていると(読み続けていれば)、太るのではなく、胃袋が広がったり、消化能力の方が強化されることでしょうか。

 

時には「消化不良」や「食当たり」を起こすかもしれませんけど、良書を読んでいると、その匙加減も分かってくると思います。

 

言葉の数を増やすだけでなく、自分の経験知をも高めてくれる読書は、図書館を使い倒すことで、極めてお安い自己投資となるのです。

 

引きこもるのなら本の中へ。

 

日記を書くことで、脳の血流を増やせるかも

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

新緑の季節がやってくると思う夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

パソコンの調子が、ここ数日連続で悪い。

 

いったい中で、何が行われているのか。

 

何が行われていないのか、皆目見当がつかない、というところが、靴の上からかゆいところを搔く事態となっている。

 

けれども少し考えてみますならば、僕たちの日常も、年を取るにつれて、同じように不調になっていくのではありますまいか。

 

普通に、何の過誤もなく生活できていると思っているけれど、実は不調のコンピュータのように、何かが行われず、別の何かが実行されているのではないでしょうか?

 

そうしたことが、積もり重なって、例えば「認知症」として確認される。

 

でも、実のところずいぶん前から、「異変」は起こっていた、ただ気がつかなかっただけ、のようにも思えます。

 

二十歳(はたち)前後で脳が成長しきったら、後は、転げていくだけなのかもしれません。

 

それが、生き物としてのニンゲンのたどる成長の過程ならば、素直に受け入れつつも、やはりいくらかの抵抗は試みなければなりません。

 

日記を手書きすることは、これからの老人社会においても、大いに推奨されるのではないかと思います。

 

日記を書こうと思ったら、その日何をしたのかを思い出さないといけません。

 

でたらめに書くわけにはいかない。

 

「晴れときどきブタ」じゃないんだから。

 

朝何時に起きて、それから何をしたのか。

 

何時ごろに何を食べたのか。

 

そうした行動記録に加えて、その時々で、何を考え何を思ったのか。

 

そうしたことをある程度詳細に思い出すことで、脳に流れる血液の量も増えてくれることを祈りましょう。

 

そうした、1日の行動記録を書くのが楽しくなると、今度はこんなことも書きたいと未来の予定にまで、積極的になれるかもしれません。

 

明日はこれをしようとか、あそこに行きたいとか、これこれが食べたいとか、生への執着が多方面に広がることでしょう。

 

自分の毎日を思い出していく中で、自分なりの行動や気持ちの傾向にも、気がつくことでしょう。

 

あそこでこうしたのはまずかった、あの場面ではこうすればよかった、こういう気持ちになるのはいいことだ、こうした気分は減らしたほうがいい、などという、生活上の改善点も見つかるかもしれません。

 

頭の上に、「!」が、いくつもつくことでしょう。

 

そうした内容を、その都度言葉に置き換えて、そのすべてを書くわけにはいかず、したがって要約もし、順序を整えたりもするなかで、さらに血流が増えていくと思われます。

 

そして、手書き。

 

脳から、いくつもの神経や筋肉に指令を飛ばし、制御して、文字を書き連ねていく。

 

書いた文字はその場で目でとらえられ、次の文章の書き方にフィードバックされていく。

 

日記帳や手帳、ノートなどに罫線に沿って字をまっすぐに書いたりするのって、実はとてもテクニカルなことではないかと思います。

 

ロボットにやらせようと思ったら、結構大変なのかも。

 

書くときは、集中はしているとは思いますが、関連した、あるいは何の関連もない事柄も、頭に浮かんだりしますよね。

 

何かしらの刺激が、脳のどこかしらの神経細胞を発火させるのだと思います。

 

そうした、直接はからまない発火現象も、脳を動かすことに、ひいては血流の増加に繋がるのだと信じたいです。

 

機械は、基本その機能だけですが、人間の脳などは、関係ない他の機能にまで、刺激が及ぶようです。

 

今考えていることと関係のないことも考えてしまい、でもそれがなぜ出てきたのか説明できない、それが、人間らしい脳の在り方でしょう。

 

そしてAIには、そんなおまけのような機能は期待できない。

 

よそ見をしていた「シリ」とか、他のことを考えてた「アレクサ」なんて、作れないでしょうから。

 

日記を書くことで、人間らしさを満喫しましょう。

 

定番のノートを持つ

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

お月見をしようかと思っている夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

昨日が半月だから、今夜も半月みたいなものだけど、久しぶりに晴れているのと、ベランダに出ても平気なほど暖かくなってもいるので、月を愛でるのもいいかと。

 

こうした、定番とでも言うべき小さな行事を、毎日の生活の中にいくつも持てばいいと思います。

 

定番と言えば、決まったノートを使っている人も多いでしょう。

 

メモを取るならこれ!と決めているノートがあるのではないでしょうか?

 

著名な作家の方が、買い置きのノートを切らしても、コンビニなどですぐ手に入れられる、という理由から、コクヨのキャンパスノートを愛用していると、エッセイに書いてました。

 

そういう、実用的な理由もありですね。

 

同じ製品を長く使っていると、その大きさだけでなく、紙の厚さや書き味、蛍光灯などに反射する白さの具合、めくるときの感触、全体的なたたずまいなどが、自分の書く生活になじんできます。

 

筆記具だと、もっと顕著に、「あのペンじゃないと書けない」「なじんだペンだとすらすらと書ける」「自分が書いたのではない、このペンが書かせてくれた」などといったことも起こるでしょうけど、ノートなどでも、同じようなことが起きても不思議ではないですよね。

 

また、定番のノートは、使い切ったからといって捨てる人はあまりいないのではないでしょうか?

 

よっぽど。日常の些細なメモだけに限定して書いていたのならともかく、使い切るまでの数週間とか数か月、生活を共にしてきたのですから、用が済んだからといって、捨ててしまうのは忍びない。

 

それに、買い物メモならともかく、その時その時の自分の考えたことを書き記したり、いろんな思いを吐き出したりしていたのなら、自分の成長の記録として、また歴史として、保存しておきたいと思うのは自然な成り行きでしょう。

 

実際に、これまでの手帳とかノートをひとところにまとめて残している人は多いと思います。

 

たとえ、読み返すことがほとんどなくても。

 

というわけで、自分の定番のノートを探してみましょう。

 

毎回違うノートにするのも、変化があって楽しめますけど、自分のど定番を一つ持っておくと、安心して書けるという心理効果もプラスされるように思います。

 

途中で変えても構いませんけど、できれば10年ぐらい変えないで使ってみる、そんなノートを見つけてみましょう。

 

おそらくなん十冊にもなると思うので、かさばる大きめのノートではなしに、B6か大きくてもA5くらいのノートがいいでしょう。

 

もちろんおすすめは、コクヨ測量野帳「スケッチブック」です。

 

本で言うと、新書ほどの大きさで、中紙が40枚という薄さ。

 

新書を並べるように、書棚にも入れられます。

 

定番のノートを決めたら、どこに保存するか、その場所も決めないといけません。

 

あちこちに置いておくと、そのうちなくなったりしがちですから。

 

いつものこれ、という定番には、精神安定効果も期待できるでしょう。

 

そして、使い続けるうちに、手になじみ、ペンになじみ、思考になじんできます。

 

いつもの表紙を確かめて、いつものクオリアを感じながら紙をめくって、いつものペンで書き出せば、新しい言葉も生まれてくるかもしれません。

 

向こう10年の相棒を探してみましょう。

 

やっぱりブレンのボテが気になるのだった。

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

半月の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

まだまだ朝晩は冷え込みます。

 

ネックウォーマーが手放せません。

 

温かいコーヒーもまた、手放せません。

 

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セリアの優秀なコーヒーカップ

 

水筒に入れて持ち歩けば、どこでもカフェ。

 

写っているノートは野帳

 

その上に乗っかってるボールペンはブレンの青。

 

0、5ミリ。

 

ブレンって、随分評判がいいけど、ボテも結構出ませんか?

 

書いてるとき、インクがちょっと多めに出ちゃうアレ、ボテ。

 

その一点だけ字が太くなるし、インクが多めに出ているものだから、染み込んで裏写りもするし、乾きもそこだけ遅くなるので、手などにすれるとインクが流れるし、いいことありません。

 

昔はもっとすごかった印象ですが、最近は随分改良されたようで、ほとんど出ないボールペンもあるみたいです。

 

でも、僕の実体験では、このブレンとジェットストリームが双璧。

 

書いててすごく気になります。

 

それなのに、ジェットストリームとブレンって、書きやすいボールペン部門だと、いつも上位にランキングされてますよね。

 

あんなにボテが多いのにと、いつも不思議でした。

 

世の中のボールペン使いの人たちは、ボテに寛容なのかしら。

 

これは一度、ボテ選手権をしなくては。

 

次回の、文具大賞でどうでしょうか。

 

ノートに自分の思いを書き出すのにも鍛錬が必要

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

目がかゆい夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

考えてみたら、空気中には、いろんなものが漂っているのであった。

 

ホコリ、花粉、PM2.5、様々な微粒子、それから隣国の黄砂、ニュートリノ、さらには各種電波まで。

 

そのすべてが目に見えたなら、目の前なんて真っ暗になるに違いない。

 

見えないほうが、いいことっていうのもあるよね。

 

ああ、でも、自分の考えていることとか感情は、見えるようにしておいたほうがいいと思います。

 

ノートや紙に書き出して、自分の考えや気持ちと向き合うのです。

 

最初は、心の中の腹黒いことがらなんて、書くのも嫌でした。

 

どこかで否定したいとか、自分はそんなひどいことを考えてはいない、てな調子で、自分に対しても「いい子」でいたかったようです。

 

特に具体的な相手がいる恨みつらみのような感情は、その言葉を書くのもためらわれましたから。

 

書き出しているときに、思ったようなことを文字にするのが嫌でした。

 

しかもそれを目でも見ないといけないし、書くことは、頭の中で「(無声ではあるものの)音読」をするに等しいことだったから。

 

文字を書きながら、頭の中で「読んでいる」ってことないですか?

 

自分に正直になると、邪な考えや、道徳から離れた気持ち、見たくない文字列にも、向き合わないといけなくなります。

 

どう考えても、そんな言葉で表現しているのだから。

 

否定はできない。

 

でもノートには書くのをためらってしまう自分がいる。

 

最初は本当に書けなかった。

 

自分が考えていることを書き出すとか、自分の思いを見える化するとか自分なりに宣言して取り組んではみたものの、そして、頭や胸の内では言葉が出てきているのに、その言葉を、表現を文字にできない。

 

でも、結局は、慣れでした。

 

何度も何度も書き出して、少しづつ「ひどい言葉」「他人が見たら引いてしまうような言葉」なんかを書けるようになっていきました。

 

いつまでも書かないままにしておくと、自分の一部を認めないままだと気づいたから。

 

穏やかに物事を考えている自分もいれば、とんでもなくひどいことを考えている自分もいて、そこに目をつぶってもしょうがない。

 

他人に対してだったら、いいところを見せたいと思うけど、自分と向き合うのに、かっこつけるわけにはいかない。

 

確かにそう考えました。そんな気持ちになったのは自分です。

 

見たくないとか、認めたくない気持ちが先立つけど、それらも自分が生み出してきていること。

 

無かったことにはできません。

 

これまでの失敗とかの背後に、いつも似たような感情や思考が働いていたのでは、と気づくこともできました。

 

もしかしたら、そういったものが、自分の課題としてあるのかもしれません。

 

乗り越えなかったら、何度でも現れる。

 

だから、きついかもしれないけど、向き合いたくないかもしれないけど、課題として、はっきりと露わにしたほうがいい。

 

逃げてたってつかまりますよ。

 

これまでがそうであったようにね。

 

時々はノートに、正直に、浮かんだことを書きなぐりましょう。

 

たとえどんなに、人倫にもとる思いが含まれていたとしても。