あなたの手帳、開きたいページにすぐに行けますか?
こんにちは。
てらぴーだよ。
夏に少し逆戻りの夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
朝からミスド。
季節のメニュー、さつまいもド。
このシリーズは、すごく甘くてブラックなコーヒーに合います。
ただ、さつまいもの粉末が生地に加えられているせいか、それとも、さつまいも感を出したいがためなのか、ドーナツ本体がホクホクなのです。
水っけというものがほとんどない。
したがって、ドーナツだけだと喉に詰まりやすい。
飲み物と一緒に喉に流し込まないと、うまく飲み込めません。
でも、甘くて、美味しいんですけどね。
というわけで、今朝はミスドで一人会議。
バーチカルの手帳を持ち込んで、次の1週間を考えます。
ところで皆さんは、手帳をすぐに開けるようにしてますか?
今月や今週、今日のページへのアクセスはどうされているのでしょうか。
しおりがついている手帳もあれば、インデックスが最初から備わっている手帳もありますよね。
市販の手帳グッズでも、該当のページに差し込むようなブックマーカーもあります。
薄い磁石になっていて、ページの上に挟み込むタイプもあります。
インデックスのシールも、事務的なものからガーリーなものまでいろいろです。
付箋を活用している人もいるでしょう。
どうやって、手帳の今必要なページにたちまちのうちにアクセスするか、これも手帳が抱える大問題なのです。
最初から、ページの一部が月ごとに色分けされていたり、月ごとに一部が切り取られ、残りがラミネート加工されたものまであります。
月ごとに、ページの端が少し切り取られて、段々になっているものがありますけど、あれって、実は右手用なんですよね。
つまり、手帳を開く時に右手じゃないと、あの段々のところに指がかからない、すなわちページを開けないという寸法なのでした。
左手では、お目当てのページを押さえることもできないのです。
そこで、僕がやっている、ページをあっという間に開く、小技を紹介しましょう。
マンスリーのページは、月が変わるごとに、マステで「耳」を作ってます。
ただマステを短めに切ってページの端に張り合わせただけ。
そこに油性ペンで月の数字を書くだけです。
先月の分は、月が改まると外して捨てます。
そもそもがマステなので、きれいに剥がれてくれます。
今月のページに素早くアクセスできればいいのです。
他の月のページをあれこれ見ることはほとんどないので、これで十分です。
ウィークリーのページは、付箋をはみ出させておいて、そこに、左手の親指をかけて開いてます。
これも「今週」にだけマッハの速さでアクセスできれば満足なのです。
左手だけでできますしね。
手帳には、もともとしおり紐が2本ついてはいるのですけど、この方が早いので、しおり紐はメモページを開く時専用にしています。
ちょっとした工夫で、手帳はどんどん便利にできます。
そんなカスタムも、手帳ライフの楽しみですよね。
手書きの奥深さ、AIに勝つのはこれ
こんにちは。
てらぴーだよ。
もう本当に涼しくなってしまった夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
生活どころか、私たちの生身の体や脳にまで、デジタルは押し寄せています。
脳に電極を差し込んで、脳波をコントロールすれば、意思の疎通は言うに及ばず、ラジオコントロールなマシーンでさえも動かすことができるでしょう。
ロボットでアンドロイドな「私」。
ニンゲンは生き残れるのか。
五感がモニター上でバーチャルに操られるようになれば、寝たきりにして、人生のあらゆる快楽さえも「体感」できるかもしれません。
ニンゲンであることの証左はどこに。
それは「手」が担うのではありますまいか。
とは言っても、「手」、単体だけではなくて、脳による思考と結びつき、心との感情の共感を為す、「手」の働きと言えば、手書きを置いてほかにありません。
手で文字を書く。
それは、単に文字を紙にしたためることではありません。
文字を紙にプリントアウトするぐらいなら、当の昔にできております。
AIよりはるか以前に。
でも、手で文字を書くことの中には、紙に文字を記す以上の働きがあると考えます。
ひとつは思考との連動。
書きながら、脳へ刺激が送られ、思考が活性化し、それがまた書くことにも影響するのです。
文字を書くことで、思考が深められると言ってもいいでしょう。
また、感情の起伏が、書き文字にそこはかとない影響を与えてもいくでしょう。
字の大きさや線の太さ、あるいは書いた文字の乱雑さなどに、その時の感情が宿ります。
『手帳図書館』だったと思うのですが、市井の人たちの手帳を集めて閲覧できるようにしている私設の図書館です。
もしその手帳の中身をワープロ打ちしてまとめたなら、無味乾燥の味気ない文字の羅列へと変貌するでしょう。
書いた人それぞれの書き文字だからこそ、魅力にもなっているのだと思います。
我々が日記をしたためるように、AIが日記を書けるとは思えません。
ハードもソフトもまだまだ、ニンゲンには及ばないのだと思います。
「言いよどむ」という言葉がありますが、AIに実装できるものでしょうか。
人は様々な理由で、書く内容を変えたり削ったりうそをついたりごまかしたりするものです。
しかもその理由が、統一されているとは限らない。
ある場面で嘘をついたから、そのような場面では必ず同じような嘘をつくとは言えないでしょう。
ある意味いい加減。
でもそれが、ニンゲンのニンゲンらしいところ。
嘘はともかく、我々が文字をしたためるそのスタイルに「計算」はなじまないでしょう。
手書きがある限り、手書きをする限りにおいて、我々はAIに対抗できるのです。
倉式珈琲の隣で、静かにサティが解体されてます
こんにちは。
てらぴーだよ。
まだまだコバエが飛んでいる夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
コバエしつこい。
午後時間があったので、倉式珈琲へ。
すると、お隣では、
サティ改めイオンの解体が進んでおりました。
近くに、巨大なイオンモールができたので、イオンというよりはサティと言った方がしっくりくるそのサティが、消えゆこうとしています。
これがまあ、ついに解体、イオン・サティ
さて、倉式。
今日のコーヒーは、パプアニューギニア・トロピカルマウンテン。
サイフォンのコーヒーは、味・香りとも濃いです。
コーヒーの味わいって、周りの環境というか、色合いも関係しますよね。
倉式珈琲は、店内の装飾がこげ茶。
そのセピアな感じ、チャコールグレイの雰囲気も、コーヒーの味わいを深めているようです。
香り豊かで、酸味も苦味も前面に出てくる、今日のコーヒーを味わいながら、雑誌をめくったり、野帳を書き継いだりして、ゆっくり過ごしました。
サービスだけど、わざわざ伝票に「ビスケット」の表示が。
サイフォンなので、2杯ぐらい飲めます。
そんな時に、「箸休め」のような「ビスケット」のおまけが、嬉しい。
コーヒー2杯だけをただ喉に流し込むより、いいアクセントになっています。
こげ茶の空間で、思考も落ち着いてくれたのか、野帳の思い付きメモも捗ったのでした。
感性の時代、アート思考をどう鍛えるのか
こんにちは。
てらぴーだよ。
汗だくで帰宅した夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
雨上がりの帰宅路。
湿度が高いせいもあってか、リュックがへばりついた背中がとんでもなく汗だく。
さて、これからは感性の時代だなどと言われておりまする。
絵画などの美術品を見て、アート思考なるものを高めようという試みがあちこちで開催されているようなのです。
もはや、正解を出すといった、知識の時代は終焉を迎えようとしているのでしょう。
その残りかすのように、相変わらず「東大脳」をうたった書籍は出版され続けてはおりますが。
どこかに正解があり、あるいは、誰かが正解を持っているので、その正解さえ探し当てれば、人生上がりだなんて、もはやそんな時代ではないのですよね。
感性と並んで重視されるのが、適切な「質問」を出せる力。
現状の問題点に対して、どのような問いかけがことの本質をとらえているのか。
そのような質問を出せる力が求められているわけです。
思えば、安宅和人さんの『シンニホン』、あの本で提案された「風の谷」を作るという計画も、安宅さんの「直感」から生まれたものでした。
データやAIを駆使して導き出されたものではなかった。
逆に、データやAIに何でもかんでも情報を詰め込んで、これからの日本の青写真を描いたならば、ずいぶんと違ったものが出てきたはずです。
何よりも、「風の谷」というのが、データや統計や情報として現れてはいないでしょうから。
どこかで「ジャンプ」があったと思います。
そしてその感性のジャンプは、「計算」とか「情報処理」からは生まれてはこない、そのような性質のものだったのではないか。
なぜだか説明はできないけれど、そうすることが「正しい」というより「楽しい」、そんなある意味無根拠の知性がこれからを作っていくのではないか。
「正しい」データを積み上げれば、必ずだれもが納得する、せざるを得ない「正解」にたどり着く。
それって、もう、令和のスタンダードじゃないよね。
どのような理路なのかは説明がつかないのだが、そして唐突に浮かんだのだけれど、これが「正解」だと思います、といった物言いが、これからは主流になっていくのかも。
「データをして語らしめよ」なんて言う「正解」の出し方は、もう通用しないでしょう。
さあ、そこで、感性だ。
ものを見て、いったいどれだけの発想を生み出せるのか。
どんなことに感情を揺さぶられたのか。
好ましい点はどこで、違和感があるとすれば何か。
そうした、頭と心を連動させる思考や感情の取り扱いを紙を広げてやってみましょう。
感性の時代の、必須のアイテムは「紙」
1枚の紙でもいいし、束ねられたノートでもいい。
真ん中から書く、おなじみ「マインドマップ」でもいいし、初めから9か所の「空欄」がある「マンダラノート」でもいい。
東大生のノートのように、縦に揃えるとかしなくてもいいでしょう。
縦も横も上下さえも不確かな、混沌が相手なのですから。
例えば日記を書くにしても、お行儀よく時系列で書かなくてもいい。
今日心を揺さぶられた順に字の大きさも変えて、イラストも添えて、いきなり斜めに書き出したっていい。
そんな「イレギュラー」を重ねれば、また新しい発想が浮かぶかもしれない。
これまでの努力の積み重ねの果てに「正解」は表れてはこない、そんな時代だからこそ、とらわれない書き方で、脳を刺激しましょう。
感性を鍛えるのは、紙とペンと生身の手。
デジタルな時代に、手書きが望まれている
こんにちは。
てらぴーだよ。
これから秋なのだの夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
コオロギが鳴いています。
鳴いているどころか、さっき小さいのが部屋の中を飛び回っていたので、タオルで包んで、外に放してやりました。
油断か隙があったのでしょう。
秋に鳴き声が聞こえてくるのはコオロギ。
童謡『虫の声』によれば、「松虫」とか「鈴虫」、「くつわむし」なんかが鳴いているのだけれど、今ではコオロギ一択ではないか。
いったいコオロギのどこに生き残りの戦略があったのか。
もしくはほかの虫の何が、滅亡へと進む要因となったのか。
秋の夜長をかつて鳴き通した虫の声だけど、日本人には風流に聞こえるのに、西洋人にはただのノイズと化すらしい。
すべては脳による情報処理の違いなのだそうだ。
同じ音、波なのにね。
その波動が、脳内で変換され、音となるかノイズとなるかが決められてしまう。
もしかしたら、同じ手書きの文字でも、見る人によっては、味わい深い筆跡と見えるか、もしくはただの落書きとみなされるか、違ってくるのかもしれない。
文字の連なりを、映像のようにとらえるのもありだろう。
文字は、どこまで崩したら、文字でなくなるのだろう。
昔の作家の中には、ものすごい悪筆の人がいて、その編集者でないと「解読」できない作家が何人かいたそうだ。
石原慎太郎さんもそんな作家のひとりだったらしく、「慎太郎番」と呼ばれる「翻訳者」がいたらしい。
書道の世界にも、創作書というのか抽象画のような書の表現がある。
およそ、文字の形を成していなくとも、墨と紙のバランスが表現の世界となるらしい。
これなら、AIもかなうまい。
それとも、データを蓄積すれば、やがて見たこともない「書」の世界がモニターの中に出現するのだろうか。
「のらもじ」という世界もあった。
これは、町のあちこちで見かける看板などの文字から、その文字の特徴を抜き出して「フォント」にしてしまおうというプロジェクト。(下浜臨太郎、他2人『のらもじ』エムディエヌコーポレーション)
手書き風の文字のフォントもいくつかあるようだし、スマホなどでスケジュールを管理したり、スマホで日記を書いたりするときに、手書き風のフォントを使い分けるようになるのかもしれない。
あるいは、手紙を書く際に、そんなフォントを使い分けるとか。
アナログもどんどんデジタルに処理されるようになるのか。
数年前に、「ヒエログリフを書いてみよう」みたいな教則本があった。
みんな、字を書きたがっているのではないか。
デジタルになって、自分の名前さえ、大人になったらなかなか手で書かない。
けれども気持ちのどこかで、手書き文字への渇望は消えてはいない。
消えていないどころか、手書きを求めている。
手帳も、書き込めるスペースの大きいものが、主流となるだろう。
デジタルに置換されようとも、人は手書きを求めている。
仏教の教え「一切皆苦」と「やりたいことリスト」
こんにちは。
てらぴーだよ。
もう半袖ではないなの夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
仏教の教えるところによれば、諸行、すなわちあらゆるものは、無常つねならぬものであり、一切皆苦、すなわち、すべては「苦しみ」なのだと。
な、何だってー!?(初期の小池龍之介)
すべては移り行くもので、少しもじっとしていない。
これはまあ分かります。
しかるに、一切がことごとく「苦」だなんて。
苦しみしかないのかよ。いや、でも、そこはかとなく快楽や楽しみや幸せもあるんじゃないの?と反論もしてみたくなりますが、そこはお釈迦様が悟られた真実。
そんな簡単に「論破」とはいかないようです。
この「苦」は、「ドゥッカ」という言葉の漢訳らしいのですが、そもそもの意味が「ままならぬ」とか「思い通りにならない」、つまりは、自分に主導権といいますか、コントロール権がないということらしいです。
「苦しみ」とはあまり関係がない。
でも、自分の自由にならないのだったら、時と場合によっては、たいそうな苦しみにもなるでしょうに。
確かに考えてみますれば、この世は自分の自由にならないことばかり。
今宵も早く帰宅したかったのにそれもかなわず、PⅭを立ち上げれば素直に動かず、おまけに我が身の一部であるはずのこの脳みそも、思うようには動いてはくれません。
何か気のきいた文章でもといつも思案するのに、わが意に反して駄文ばかりが画面上に現れる始末。
あれ、おかしいな、もっと格調高くしかもウィットやらユーモアやエスプリのきいた文章になるはずなのに、どこでキーを叩き間違えたのだろう。
自分にコントロールできるものは何一つないのでした。
それでも、少しは主導権を握ろうと、スケジュール帳を開いては、自分が自由になる曜日時間帯を確認。
傍らの野帳にて、やりたいことをリスト化しつつ、1週間に配分していくのです。
こうした計画も、自分の意図とは関係なく、そうなってしまったものと見なせましょうけど、せめてこれぐらいは、「自分で決めた」と思いたいもの。
それでも、よくよく考えてみたならば、やはり「自分で決めた」とはいかないものなのでしょうか。
自由などないのだとしたら、手帳に記すあれやこれやは誰からのもしくはどこからの「指令」なのでありましょうか。
それこそが「因縁」?
金沢ロフト閉店ならぬ移転、でもまだ『ほぼ日』にさわれない日々
こんにちは。
てらぴーだよ。
すっかり涼しくなった夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
石川県は金沢の「ロフト」が、先々月の7月の10日ごろに閉店しまして。
「思ったように客足が伸びなかった」というので、契約を更新せず撤退と。
売り場面積は狭かったものの、僕のお目当ては『ほぼ日手帳』。
『ほぼ日』が手に取って見られるのなら、屋台のようなスペースでも構いません。
でも、石川県じゃあ、「ロフト」じゃないと見られない手帳もあったので、閉店撤退のショックは大きゅうございました。
と、打ちひしがれておりましたら、金沢駅の真ん前というかすぐ隣のイオンビル(正式な名称ではございません)「金沢フォーラス」に、この秋移転するとの情報が。
ふう、『ほぼ日』をおさわりできることが、首の皮1枚で繋がりました。
でも新装開店は10月ごろなのだとか。
それまで『ほぼ日』にお目にかかれないなんて。
購入するだけならば、ネットもありますが、手に取って、あれこれ見たりさわったりしたいだけなので、実物があればいいだけ、とも言えましょう。
『ほぼ日』を取り扱う実店舗を増やしてほしい。
『ほぼ日』のライバルとも言える位置関係のコクヨの『ジブン手帳』も、取り扱っているお店が少ないです。
取り扱っていても、「見本」がなかったりして、実際の中身を見たりさわったりできないことも多いです。
これもまた、都会と地方の文化的格差の故なのでしょうか。
「新しいもの」「流行りモノ」「新奇なもの」などは、都会から発生してしかる後地方へと伝搬する、といった図式が当たり前のようになったのも、そう遠くない時代ではないかと思います。
少し過去にさかのぼれば、「中央と周辺」といった図式にからめとられない文化の広がりがあったのではないか。
地方には地方の、確固たる文化や伝統や、歴史といったものが、どこが中心でどこが周縁なのかといった二分法を無意味にしてしまう磁場もまたあったのではないか。
交通の偏った発達や、中央が道筋を描いた「地方分権」、そして、教育。
そうした、複合的な原因が、幾重にも重なって、「中央と周辺」「都市と田舎」という、今日見られる文化的格差が生まれ定着したのではありますまいか。
そして、コロナ禍で加速されそうな時代の変革は、こうした文化的格差にも、及ぶでありましょう。
ものを考え、その考えを紙に己が手で記す、その営みは、AIの時代にますます見直されてくるでしょう。
「字を書く」という、なんてことのない当たり前が、もしかしたら、新しい文化として、しかも地方から、発信してくるかもしれません。
曲がり角の時代だからこそのオキテ破り。
文字を書くことにこだわった、道具か、それとも作品か、あるいは考え方なのか。
新しい手帳やノートの使い方が、「手帳2.0」のように更新されるのでしょう。
その前に『ほぼ日』にさわらなくては。