手書きの奥深さ、AIに勝つのはこれ

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

もう本当に涼しくなってしまった夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

生活どころか、私たちの生身の体や脳にまで、デジタルは押し寄せています。

 

脳に電極を差し込んで、脳波をコントロールすれば、意思の疎通は言うに及ばず、ラジオコントロールなマシーンでさえも動かすことができるでしょう。

 

ロボットでアンドロイドな「私」。

 

ニンゲンは生き残れるのか。

 

五感がモニター上でバーチャルに操られるようになれば、寝たきりにして、人生のあらゆる快楽さえも「体感」できるかもしれません。

 

ニンゲンであることの証左はどこに。

 

それは「手」が担うのではありますまいか。

 

とは言っても、「手」、単体だけではなくて、脳による思考と結びつき、心との感情の共感を為す、「手」の働きと言えば、手書きを置いてほかにありません。

 

手で文字を書く。

 

それは、単に文字を紙にしたためることではありません。

 

文字を紙にプリントアウトするぐらいなら、当の昔にできております。

 

AIよりはるか以前に。

 

でも、手で文字を書くことの中には、紙に文字を記す以上の働きがあると考えます。

 

ひとつは思考との連動。

 

書きながら、脳へ刺激が送られ、思考が活性化し、それがまた書くことにも影響するのです。

 

文字を書くことで、思考が深められると言ってもいいでしょう。

 

また、感情の起伏が、書き文字にそこはかとない影響を与えてもいくでしょう。

 

字の大きさや線の太さ、あるいは書いた文字の乱雑さなどに、その時の感情が宿ります。

 

『手帳図書館』だったと思うのですが、市井の人たちの手帳を集めて閲覧できるようにしている私設の図書館です。

 

もしその手帳の中身をワープロ打ちしてまとめたなら、無味乾燥の味気ない文字の羅列へと変貌するでしょう。

 

書いた人それぞれの書き文字だからこそ、魅力にもなっているのだと思います。

 

我々が日記をしたためるように、AIが日記を書けるとは思えません。

 

ハードもソフトもまだまだ、ニンゲンには及ばないのだと思います。

 

「言いよどむ」という言葉がありますが、AIに実装できるものでしょうか。

 

人は様々な理由で、書く内容を変えたり削ったりうそをついたりごまかしたりするものです。

 

しかもその理由が、統一されているとは限らない。

 

ある場面で嘘をついたから、そのような場面では必ず同じような嘘をつくとは言えないでしょう。

 

ある意味いい加減。

 

でもそれが、ニンゲンのニンゲンらしいところ。

 

嘘はともかく、我々が文字をしたためるそのスタイルに「計算」はなじまないでしょう。

 

手書きがある限り、手書きをする限りにおいて、我々はAIに対抗できるのです。