手書きは老人にこそふさわしい

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

雨が降ってさらに寒さが増した夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

AIが完勝しても、将棋の人気は衰えてはいないようです。

 

人が関わることに、AIでは置き換えられない何かがあるのでしょうか?

 

効率は求めればいいし、正確な判定は今後さらに研ぎ澄まされるでしょう。

 

テクノロジーの進化発展は、「善悪」を介在させないまま、突き進むのでしょう。

 

少しづつ、人の意識というものも、脳波に還元されて解明が進んでいるようです。

 

「この脳波が脳のここから出た、ということは、コップの水を思い浮かべましたね」とか、「右手を動かしたいのなら、この脳波を発生させるスイッチを押せばいいのです」なんていう時代がすぐそこまで来ているのかもしれません。

 

「脳に電極、刺してる?」がトレンド入りするのかも。

 

オレは、アナログでいいよ。

 

アナログにこだわって、手書きで文字を書いていると、手書きならではの良さ、おもしろさというものに気がつくときがあります。

 

何よりも、まずは、手書きというのは時間がかかります。

 

特に、画数の多い漢字なんて。

 

さらに、そうした漢字で、画数はそこそこ多いのに、ひらがなで書いたら一文字といった場合は、特に急いでいるときは、泣きたくなります。

 

ひらがなで書いたら「は」で済むのに、漢字で「葉」とか「歯」と書かざるを得ない時、こういう時は正直「めんどくさい」と思ってしまいます。

 

でも、いくら自分しか見ないメモや日記だとは言え、ひらがなばかり、というのも人知れず恥ずかしい。

 

なので、半ば我慢して漢字を書いてます。

 

でも、認知症の予防にもなりますよね、と密かに自分をなだめつつ。

 

漢字かな交じり文という日本語の表記では、手書きをする場合、どうしたって時間がかかるのです。

 

最近はとんと見かけませんが、昔は雑誌に「速記」の通信講座の広告があったものです。

 

裁判所や国会で威力を発揮していると信じている「速記」。

 

ベビースターラーメンを2,3本並べたような「文字列」なのに、それだけで「首相が外遊に出かけました」ぐらいの情報量になる、というイメージ。

 

日ペンの美子ちゃんも復活したことだし、「速記」もリバイバルしないかしら。

 

それはさておき。

 

手書きは時間がかかるのでした。

 

でも、その、「文字を(思い出しながら)手で書いている」その時間に、実は頭の中では、ものすごい情報処理や情報検索が行われているのではないでしょうか。

 

字を書きながら、頭の中で次の文面を考えていたり、イメージが広がっていたり、別のエピソードとつながっていたりと、いろいろ動いているようなのです。

 

ソースはこの私。というところが、今一つ説得力がないようにも思えますけど、どうでしょう、字を書いてて、次に書く文言がほぼ自動的に出てきたり、思っても見なかった方向に筆が滑ったり、さらには、まったく関係のない記憶やイメージが浮かんだりと、そういうことって、あるでしょう?

 

そこが、手書きをやめられない大きな理由です。

 

字を書くそのわずかな時間に、脳はフルではないかもしれませんが、かなり回転している。

 

そうしたイメージや、忘れ去られた記憶の思い出しや、ひらめき、あるいはひょんなことからの結びつき、スパーク。

 

手帳や日記、思い付きのメモを書くことは、もう書かれた文章を書き写すのとは全く異なる頭の使い方をしているのでしょう。

 

それが、脳のあちこちと結びついて、神経の伝達やら、新しい経路やらを活性化しているのではないでしょうか?

 

20歳を過ぎれば、脳細胞は日々失われていくのだと言います。

 

でも、老人になっても、新しい神経細胞の結びつきは行われていて、それが脳を生き生きとさせるのだとか。

 

なので、体がよぼよぼになったとしても、脳は、すなわち認知能力は、頭の柔らかさは、みずみずしく保つことができるのでしょう。

 

「最近物覚えが悪くなって」というのは、ですから、ただの言い訳にしか過ぎないと知るべきなのです。

 

高齢者こそ、手書きで手帳や日記・メモを書くべきです。

 

費用もほとんどかかりませんし、道具ももうそろっているのではありませんか?