毎日何かしら「かみ」に書こう、その「かみ」は、あの「かみ」かも

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

さわやかな風に吹かれて自転車をこいだ日の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

近所の、比較的新しい図書館に行って驚愕!

 

「いす」がまるでない。座るところ皆無。

 

新聞雑誌の閲覧もできない。

 

本は借りられるので、借りる本を選んだらさっさと帰れということらしい。

 

もうこうなったら「貸本屋さん」、図書館の雰囲気はありません。

 

でも、本を読むことをやめるという選択肢はありません。

 

気晴らしでもあり、自己涵養でもあるのですから。

 

生きていく以上は、頭体心を動かしていく必要があります。

 

常に、インプットとアウトプットを必要としているのです。

 

絶え間なく呼吸をしているように。

 

たとえ質素極まりない食事であったとしても、それが命を伸ばしているわけでしょう。

 

わずか数ページの読書であっても、何かしらの「栄養」になっていると信じましょう。

 

毎日でなくてもお風呂に入ると気持ちがいいように、頭にも心にも「気持ちのいいもの(こと)」が日々与えられる必要があるのです。

 

人生を冒険だとかチャレンジだとはよく言われることですが、それはいくつになっても同じことなのだと思います。

 

若者の特権では、ないはずです。

 

そして、気の持ちようで、日々の些細なことにも「冒険」や「挑戦」をまとわせることができるでしょう。

 

例えばスーパーで、いつもとは違った「お惣菜」を買う、なんてことも「冒険」なのだとカウントしましょう。

 

常に新しいことをしてみる、これまでと違った選択をする、時には自分ルールを逸脱する許可を与える、そうやって、「できる」を増やしていくのです。

 

何も大掛かりな、それこそ一世一代なことばかりが「冒険」や「挑戦」ではないでしょうし、大きな選択ばかりで、人生がつくられているわけでもないでしょうから。

 

そして、そんな毎日の冒険の記録を、航海日誌よろしく手帳やノートに書きとめましょう。

 

書かないと、「何もしなかった」ように記憶されてしまいます。

 

後で、あの頃何してたっけ?と思い出しても、何も出てこないと寂しくはないですか?

 

確かに生きていたのに、何をしていたのかが皆目わからないなんて、残念過ぎます。

 

どんなに当たり前のことでも、ありきたりのことでも、それがいつまでも続くわけではありませんから、それらはいつしか、その当時の自分に流行っていたことになっていきます。

 

つまり、時代の刻印を帯びるのです。

 

「あの頃、こんなことしてたんだ」「こんな食事してたのか、今はしないよね」といったノスタルジアに包まれること請け合いです。

 

加えて、世間の動きなんて書いておけば、もしかしたら、世界史級の同時代史料となるかもしれません、数千年後には。

 

それはともかく、たとえ何か不十分なことがあったにせよ、この年この月この日を生きていたのですから、一言「暑かった」でも手帳の隅に書くことをお勧めします。

 

いきなり詳細な日記を書く必要はありません。

 

少しづつ何かしら書いて、書くことの抵抗感を下げて、気が向いたら長く書いてみて。

 

そうやって、毎日の自分を振り返っていけば、次第に手帳やノートが愛おしくなるでしょう。

 

さらに書く工夫をしていくと、書くこと自体が楽しくなるでしょう。

 

そして、書いたものは、新しい何かをあなたに告げてくれると信じます。

 

それは何かの気づきであったり、自分の隠れた望みであったり、抱えている本当の問題であったりします。

 

書くことの中には不思議な力があるのです。

 

「紙に手書き」はもしかしたら、「神に手書き」なのかもしれません。