メモを取ろう、消えてしまった思い付きを呼び戻すために

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

相変わらずPⅭが言うことを聞かない夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

今気温26度もあるんだ、と言うことを聞かないPⅭに教えられてびっくりだ。

 

座っているだけで汗が噴き出す季節になって仕舞いました。

 

手がかじかんでうまく打てない時もあったのに。

 

季節は巡ります。

 

その季節の巡りがどのようであれ、お構いなしにメモを取るわたくし。

 

ペンとメモ帳がないと落ち着かなくなりますね。

 

挙動不審とまではいかないものの、「何かが足りない」感でいっぱいになります。

 

なのであちこちに、メモとペンのセットを置いてます。

 

ペンは4色ボールペン、色分けがしたいのではなくて、シャーペンや鉛筆でのメモよりも、ボールペンでのメモの方が書きやすいかなと思って。

 

でも、ボールペンの最大の欠点は、インクがまだあるのにいきなり書けなくなること。

 

それを復活させるライフハックもありますが、いまいちうまくいったためしがない。

 

しからば、ボールペンが4本もあれば、そのうち1本は書けるだろう、4本とも全滅は確率から言ってもありえない、とのひらめきと言いますか思い付きと言いますか、そのような観点から、「4色ボールペン」にしているのでした。

 

ありがたいことに、デザインにこだわらなければ、4色ボールペンでも、3本セットで110円で手に入る時代。

 

家の内外のあちこちに置いたとしても、それほどふところも傷みますまい。

 

というわけで、トイレ、テーブルや机に、それからカバンの中に、メモ帳と4色ボールペンのセットが置けるのです。

 

寝室の枕元だけは、寝転がってメモを取るので、シャーペンにしています。

 

気分次第で、4Bの鉛筆にすることもあります。

 

書き文字は、濃いほうが見やすいし、目でそれを見るので脳への刺激も強くなり、記憶にも残りやすいし、発想も広がりやすいと思います。

 

メモは、単に書くだけでなく、広げるというか、拡張して使えるものになると考えてます。

 

メモが、単なるスケジュールの補足とか、「○○さんに連絡すること」といったものなら、あるいは買い物メモの類なら、用事が済んだら破棄しても構いません。

 

でも、メモ帳をあちこちに配置して、なおかつメインのメモ帳を携帯してまで書きとめたいこととは何か。

 

それが、発想や思い付き、自分のライフワークに関係したメモなのだと思います。

 

自分が今抱えている諸問題を解決したいとか、改善に努めたいとか、それにつながる新たなアイデアが欲しいとか、要は、自分の毎日をもっと楽しくすること、そのためのメモなのでしょう。

 

個人の生活の全般、仕事上の問題解決もあるでしょうし、プライベートな事柄を活性化することももちろんでしょうし、したいことやりたいことについてのそれまでなかったものの見方もあるでしょう。

 

考えてすぐ出ることもあるかもしれませんが、たいていは、何時間も何日も、時には何か月も考えて、出てくる「ひらめき」もあるはずです。

 

そして、そうしたひらめきや思い付きは、アルコールの消毒液のように、あっという間に気化して消えてしまい、痕跡すら残りません。

 

でも、たちの悪いことに、「何かを思いついた」という記憶は残るのです。

 

悔しいったらありゃしない。

 

というわけで、すかさずメモを取る必要があるのです。

 

いい思い付きが浮かんで、こんなにいい思い付きなのだから忘れないだろうと思ってそのままにして、霧のかなたに消えていった、われながら素晴らしい(という感触が残っているのが腹立たしい)発想は、三桁に行くと思います。

 

消えてしまった思い付きも、メモを取っていれば、そのうち(気づかずとも)またやってくるのではないかと信じて、メモを取っているのです。

 

本を読んで忘れないための抜き書きではあるものの

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

そこそこ半熟卵の黄身のような夕日を見送った夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

色合いは薄かったけど、そこそこオレンジ色の夕焼けだったので、晴れるといいな明日。

 

読書をしていて直面する最大の問題が、「読んだ内容を覚えていない」ということですよね。

 

読んで24時間以内にその内容を友人に話す、なんていうライフハックな方法もありますが、日課のように聞かされて大丈夫な友人もそうそういないでしょう。

 

それとも、日替わりで話す友人を変える?

 

結局のところ、読書は孤独な作業なのです。

 

自分で何とかするしかない。

 

読んだ内容を忘れないために、あるいは、自分にとって覚えておきたい事柄に出会ったらどうするか。

 

昔も今も「書き抜き」ですよね。

 

もちろん何かしらのまとめを作ったり、図解したりと、そのまま書き抜かないやり方もあると言えばある。

 

こればっかりは、自分に合うやり方を試行錯誤しながら、見つけていくしかないのでしょう。

 

読んでいて「これは!」と思ったフレーズをそのまま書き抜いたり、段落ごとにまとめたり、全体をおおざっぱにマインドマップしたり、読む本のジャンルとか内容で、ノートからカードまでいろいろと変えてます。

 

煩わしさも少しは、ある。

 

もちろん、その本の正確なダイジェストを作ったところで、それをどう役立てるのか、といった課題は残ります。

 

でも、読んだ本の内容を、「面白かった」だけで済ませることにも葛藤があります。

 

できるだけその内容を詳しく語れるようになりたい。

 

その本の、どういうところが自分の血肉となったのか、説明できるようになりたい。

 

何も読んだ本を丸ごと紹介したり批評しなくてもいいのですけれど、読んだ後で自分の手元に残ったものがほんの少しだと、もっと語れるようになりたいと思ってしまう。

 

それで、ノートを取ったり、カードに抜き書きしたり、図解などでまとめたり、気になる言葉を書き抜いて、ページ数を書き添えるという自分用の索引を作ったり、これまでにもあれこれしてきました。

 

ただ、決定的な方法に出会ってない。

 

継続的にしてこなくて、あっちにフラフラこっちに寄り道と、ぶれていたからでしょうか。

 

最近も、「野帳に時系列で書く」から離れて、B6カードに抜き書きをしたほうがいいのではないかと思ったり。

 

もちろん、読んでて図解が頭に浮かぶこともあるし、このページのまとめをノートに書きたいと思うこともあります。

 

抜き書きだけではない。

 

ノートもカードも使わないで、本そのものに線を引いたり書き込みをしたり、という方法もあって、これが一番安上がりだとは思うものの、図書館の本には使えないテクニックですよね。

 

欲しい本読みたい本を、何の迷いもなく買える人になりたい。

 

読んで忘れてしまっても、その本のエッセンスは、自分の中のどこかしらに蓄積されていて、しかるべき時には記憶の底から浮上して、自分にその時の最上の選択を選ばせている、と信じてます。

 

でなかったら、本当にあの時間が無駄になったってことになるから。

 

まずは、読もう。

 

万年筆「kakuno」を復活させました

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

ひたすら蒸し暑い夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

万年筆を復活させました。

 

普段持ち歩かないペンポーチの隅で眠っていたパイロットの「kakuno」。

 

中字です。

 

オレンジのキャップと、黄緑のキャップの2本。

 

発売して割合すぐに買った記憶があります。

 

一時期は、店頭から消えるぐらいの人気でした。

 

今も評判よく、売れ続けているようです。

 

青と黒のインクを入れてました。

 

万年筆で不思議なのは、しばらく使わないでいると、インクが消え失せてしまう、ということ。

 

久しぶりにいざ書こうと思っても、インクなし、ということが何度もありました。

 

そんなに使ってないのに。

 

たぶん水分が蒸発するのでしょうけど、インクの成分は蒸発せずに残ると思うのですけど、筆記などに支障はないのでしょうか。

 

ひどいと、インクカートリッジ3本分くらいが消えてしまったことも。

 

だからと言って、その分、インクが濃くなるかというとそうでもないように思います。

 

あの現象に、何か名前はあるのでしょうか?

 

これがワインとかウイスキーだと、樽に寝かせている間に目減りした分を「天使のわけまえ」と呼ぶそうです。

 

万年筆のインクの場合は、「分け前」どころか、全部持っていくのですから、「天使の総取り」ではないですか。

 

強欲資本主義かよ。

 

ともかく、先端の、ペン先がついているパーツを水洗いして、十分乾かし、新しいインクカートリッジを装着しました。

 

久しぶりの万年筆。

 

中字なので、ちょいと太めの文字がいい感じです。

 

ボールペンの色分けと同様に、黒は事実とか他人の意見、青は自分の考えなどと書き分けてます。

 

最近「インク沼」の話もよく目にするのですが、まだ使ってない色であれこれ書いてみたい、という欲望はあるものの、ずっとその色で書き続けるわけでもなく、また、「インク減り減り事案」が未解決なので、二の足を踏んでます。

 

そう言えば、高校生の頃、確か1000円で買えるカジュアルな万年筆が出て、黄色かオレンジのインクを入れて使ってたことがありました。

 

去年かな、復刻されたニュースを見た気がしたけど、グーグル先生はご存じなかったようです。

 

その昔、万年筆は、中学への進学祝いとして定番だったように思います。

 

万年筆を使い始めるのが中学あたり、といった見識があった模様です。

 

これまたその昔、小学館の「小学〇年生」という学習雑誌の中学版として、旺文社の「時代」、学研の「コース」という雑誌があったのです。

 

それぞれ学年別に、「中1時代」とか「中3コース」と呼ばれていて、時代派とコース派に分かれていたように覚えてます。

 

ちなみに時代派でした。

 

その中学1年生版を(確か)年間で予約すると、時代もコースも「特製万年筆」をプレゼントしていたはず。

 

というわけで、僕などは、親せきからもらった進学祝いの万年筆と合わせて、2本の万年筆を持つことと相成ったのでした。

 

万年筆2本分は大人になった気分で、早速授業で使ってはみたものの、それまで使っていた鉛筆とは、書きやすさとか異次元なので、すぐに飽きましたとさ。

 

インクで書くというのにも慣れてなかった。

 

乾くまで触っちゃダメというのが、もどかしかったのでしょう。

 

なので、万年筆での筆記は、ゆっくりめがおすすめ。

 

それは今も変わりません。

 

万年筆での筆記には、走り書きは似合いません。

 

何を書くか、自分の中から何を引き出すのか、そのことに、筆記具というものは、案外な力を持ち合わせているのかもしれません。

 

最近の、あの首から下げている扇風機について考えた

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

閉じこもるしかない雨の日の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

これが世相なのか、風俗なのか。

 

大きいヘッドフォンを肩に休ませている光景は、もうおなじみのものだが、そのヘッドフォン、最近のは少し形が違うのかと思っていたら、ヘッドフォンではないらしい。

 

ハンディな肩掛けの扇風機、もといファンであるらしい。

 

去年もこんなのありましたっけ?

 

ここまで広がるのは今年が初めてではないかしら。

 

扇風機をそのままちっちゃくした、卓上型のは、数年前から見てはいたものの、肩掛け首掛けハンディなものは、見てなかったと思います。

 

今年の流行でしょうか。

 

令和3年の風俗でしょうか。

 

後の時代から、「ハンディファンの元年」などと記念されるのでしょうか。

 

見ただけで、実際に装着はしていないのでわかりませんが、首に掛けると、なかなかに重いのではありませんか。

 

肌にあたる部分に装着する、タオル地かなんかの「カバー」まで、そのうち出るんじゃないのか。

 

何しろ、受話器カバーやドアノブカバーの国なのだから。

 

首にタオルをひっかけて、自転車に乗ったりしてた女子高生が話題になってましたけど、それはもう廃れたのでしょうか。

 

卓上型の扇風機も、紐をつけて首からぶら下げられるようになって、今じゃあ、ダイソーで買えます。

 

たぶん電池は別売りだと思うけど、それでも220円で、個別の涼が取れるなんて、暑さコントロールも、パーソナルな時代に入ったのでしょうか。

 

それにしても、ダイソーの店頭をにぎわしている、大量のパーソナルな扇風機のカタマリを見ていると、これぞ「資本主義的生産」という気がしてきます。

 

なぜにこの商品が、110円で売られるのかと言えば、それはもう「大量生産」に他なりません。

 

しかもおそらくは中国やあるいはベトナムで、田舎から出てきた女の子が、工場の寮で共同生活をしながら、1日数百円の賃金で働いているからこそ可能になっている価格だと言えましょう。

 

そして、コンテナで船積みで、日本に運ばれて、小売店の店頭に並ぶのです。

 

きわめてステレオタイプな捉え方をしましたが、これが、ウォーラステインが提唱した、世界システム論なのでしょう。

 

しかしここには、「責任者」というものがいません。

 

大量生産、大量消費、そのおかげで、「欲しかったあの品」が「安く買える」のですから。

 

けれどもこれには続きがあって、「大量生産、大量消費」の次は、「大量廃棄」へと進むのです。

 

特にダイソーで売られているお安い扇風機が、製品としても、愛用品としても、長続きするとは思えない。

 

製品寿命としても、そう何年も使うものでもないでしょうし、消費者は、無責任に「飽きます」。

 

大量に売られた後は、大量にしかも個々にごみとなるのです。

 

リサイクルも難しいでしょう。

 

そして、責任者がいない。

 

商品を企画、設計した人は、「こんな商品があればいいかなと思って」企画したのでしょうし、工場で生産した人は、「作れと言われたから作ったまで」、物流関係の人だって「運んだだけ」、小売りの人も「荷物が届いたから売ったまで」

 

そして、消費者は、壊れたから、飽きたから、捨てただけ。

 

プラスチックやいろんな金属の複合体だから、リサイクルするよりは、埋め立てたほうが「安上がり」なのかもしれません。

 

こうして、責任者不在で、資本主義的生産の王道を行く「大量生産、大量消費」、そして、なかなかイメージされませんが、「大量廃棄」のサイクルが回されているのです。

 

最終形態を考えたら、資源やエネルギーを消費しながら、国土のあちこちを埋め立てているに過ぎない。

 

けれども、「果たしてそれは必要か」と問うこともできないくらい、現代社会というものは、逃げ足が速い。

 

もう、次のトレンドが、始まっている。

 

こうした流れから身を引いて考え、生活するすべを身につけないといけないのでしょう。

 

それが、話題の、『人新世の「資本論」』の斎藤幸平さんの主張でもあるような気がします。

 

やはり、確実に変えていけるのは、身の回り3メートルから。

 

「日ペンの美子ちゃん」でおなじみのボールペン講座に、左利き用のテキストが出たってよ

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

七夕の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

旧暦のままだったら、晴れていたかもしれない七夕の夜。

 

1年に一回の逢瀬。

 

織姫と彦星のお話を聞いたのは、確か幼稚園のころ。

 

幼稚園児にしてみたら、1年に1回なんて、もう、絶望的な長さ。

 

たぶんその当時、遠い目をしていたことでしょう。

 

織姫も彦星も、手帳に印をつけて、「もう少しだ」なんて楽しみにしていたのでしょうか。

 

でも、年に1回は会えるけど、一緒には住めないのだとしたら、織姫は永遠のアイドルのようなもの。

 

そして、永遠のアイドルと言えば、デビューして半世紀になろうとしている、われらが「日ペンの美子ちゃん」。

 

の、ボールペン習字講座に、「左利き用テキスト」が登場したらしいです。

 

通信教育95年だそうですから、1世紀かけて、左利きに目が届いた、ということでしょうか。

 

これまでのテキストでは、解説やお手本が左側にあったので、左手で書こうとすると、そのお手本や解説が左手で隠れて見えなくなってしまう。

 

そこで、左手で書くときに、隠れてしまわないように、解説もお手本も右側に移した、という何やらコロンブスの卵のようなお話。

 

それまで左利きの人は、お手本の字が隠れても、じっと我慢の子であったのですかね。

 

僕も左利きで、小学校に上がる前に、字を書くのだけは右に直されましたけど、その時は割とすんなり右でも書けるようになったと思います。

 

以来、字だけは右でした。

 

絵を描いたりするのは左でした。

 

さほど「矯正」されたという感覚はなかったのですけど、因果関係は不明ですが、小4から、吃音が出ました。

 

どもるようになったのです。

 

ただ、高校に上がって、字も左で書くようになっても、吃音は治りませんでしたけど。

 

なぜかこの世は、右利きが多くて、したがっていろんなものが、右手で操作するようになっています。

 

有名なところでは、ハサミとかカッター、急須の取っ手、一部のお玉(スープとかつぐやつ)、自動販売機のコインを入れる穴、そして、歩兵の持つ銃。

 

一説には、兵隊の持つライフル銃とかが右利き用にできているので、左利きの矯正が奨励されたのだとか。

 

僕は大学生のころ、ちょっと変わった学生寮にいたのですが、確か入寮初日に、受付にいた職員の小沢さんの前で名前を書いたところ、

 

寺田、お前左利きか、それ、卒業までに直さないと就職できんぞ

 

と、真顔で言われました。

 

そんな時代もあったのさ。

 

でも、左利きにしてみたら、まだ住みにくいところはありますよね。

 

そうした小さなストレスが重なるから、左利きは長生きできないなんて本まで出る始末。

 

かわいそうな「ぎっちょ」の諸君、手を携えて、右利きの文化を告発していきましょう。

 

で、日ペンのボールペン講座に、まずは拍手を。

 

一口に左利きと言っても、左手で字を書くそのスタイルに、大きく分けて2種類あると思います。

 

紙やノートなどをまっすぐにして書けるタイプと、紙やノートを右に傾けないと書けないタイプ。

 

アメリカの大統領がまっすぐタイプ。

 

何かの条約の調印で、高そうな万年筆でサインをする時、左利きの僕が見てても書きにくそうに、左手を内側に曲げるような格好でサインしてました。

 

オバマ大統領がそうでしたし、クリントンもブッシュも左利きでした。

 

僕は、紙などを斜めにして書くタイプ。

 

あるお役所に出向いて、受付で自分の住所と名前を書くときがあって、僕は書類を斜めにして書こうとしたら、受付の内側にいた職員のおばさんに書類をまっすぐに直されました、2回も。

 

書類はカウンターの線と垂直になるように置いて、署名すべしなんて規則でもあるのかしら。

 

左利きが当たり前になるには、まだ時間が必要なのでしょうか。

 

独学の周辺の力にも、手帳やノートが役立つ

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

カエルの声も消え、蒸し暑さだけが漂う夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

雨なので、自転車に乗るときは、レインウエアを着るわけですが、袖を通しただけで、両腕が蒸し暑さに包まれます。

 

学生の頃、お寿司屋さんでバイトしてて、配達とかあったのですが、雨の日は、雨合羽を着てました。

 

ところがこの雨合羽がゴム製。

 

すなわち、通気性ゼロ。

 

袖を通した瞬間に、両腕から汗が吹き出しました。

 

そのトラウマでしょうか、袖を通して蒸すと、あのゴム引きの記憶がよみがえるとかよみがえらないとか。

 

今しばらくは、蒸し蒸しが続くのでしょう。

 

独学ばやりですが、学び方の周辺にも、関心が注がれているようです。

 

例えば時間術のような、時間の使い方をどうするといったノウハウ。

 

ある程度のまとまった時間を確保しないと、学びも身につかないでしょう。

 

それから、集中力。

 

時間の使い方を補強する力がありますよね。

 

そして、集中した後は休息、すなわち、メリハリのつけ方。

 

1日の内で、2時間集中できても、その後が続かなかったら、学習の成果をあげるのは難しくなるでしょう。

 

だからと言って、10時間も集中したら、それっきりで終わりそうです。

 

緩急自在と言いますが、集中と弛緩をうまく組み合わせて、勉強時間を延ばすことが肝要なのです。

 

まだありますよ、習慣のつけ方。

 

どんなにいいことでも、繰り返し取り組まないと身につきません。

 

ある1日だけ取り組んで、次からはしないとなったら、何も身につかないばかりか、自己肯定感を下げてしまうでしょう。

 

ここはぜひ、手帳を活用して、習慣化する癖をつけたいものです。

 

我々の行動は、感情に左右されやすいという特徴があるようです。

 

しからばこの特徴を逆手にとって、習慣化に生かしましょう。

 

習慣化したい行動に、「快」の感覚を強くくっつければいいのです。

 

習慣化したい行動そのものが「快」なのだとしたら、おそらくすでに習慣化していることでしょう。

 

問題は、それほど楽しくない、もしくは苦痛な行動を習慣化する時ですよね。

 

その行動そのものを「快」にすることはできなくても、何かしら「快」なものごと、つまりは楽しい経験を自分にしてあげるか、そのような楽しい感情をくっつければいいのです。

 

半ば、無理やりにでも。

 

「快」を抱き合わせることで、「ああ、またやりたい」気持ちが生まれるよう、自分を仕向けていく。

 

よく「自分にご褒美」と言いますが、それを時間差なしのセットにする。

 

例えば、朝早起きできた、そのご褒美が、寝る前のビールといった時間差ではなく、その行動のすぐ後に「ご褒美」をあげればいい。

 

だからと言って、平日の朝、早起きのご褒美がビールというのは、無理かもしれませんが。

 

ご褒美を変えてみましょう。

 

「快」の感情を演出して、「面白い!またやりたい!」方向に、自分をドライブしていきましょう。

 

こうした、学びの周辺の力も、大切に伸ばしていったほうが、独学もはかどるというものです。

 

そして、そのツールとして、手帳やノートが活躍することでしょう。

 

財力さえあれば、文具を自由にできるかも、だ

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

雨でも涼しくならない夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

今日ほど、財力があればなあと思った日はなかったのではないか。

 

なんでも、コクヨが、(ある程度)自由にデザインできる文具の販売を始めたとかで、サイトを見てみたら、われらが「野帳」が並んでいるではないですか。

 

オリジナルの深緑に加えて、白、黒の色違いがあって、その表紙の部分に自由にデザインできるらしい。

 

で、お値段1冊1100円。

 

通常価格が税込231円なので、4倍から5倍はしますよね。

 

これが、ヒカキンなら、何もためらわずにデザインして、何千冊だろうと買ってしまえるのに。

 

ああ、財力が欲しい。

 

でも、特別な万年筆なんかをのぞくと、文具の高級品と言っても、たかが知れてます。

 

これが時計なんかだと、数十万円はおろか、数千万円、果ては数億円にまで到達するのに、数千万円のシャーペンとか、数億円の消しゴムにはお目にかかれません。

 

職人が手で削ったシャー芯なんてものもない。

 

文房具の世界は、日常的でつつましやかなのでしょう。

 

高くても数千円、ふだん使いなら数百円といったあたりで、文具の世界が動いてます。

 

なので、店頭で見て気に入ったから、の衝動買いにも対応できます。

 

ショウウインドウで一目ぼれしてマセラッティを買う人もアラブではいらっしゃるのでしょうけど、日本では珍しい、でもこれが文具なら、たいていの商品は、衝動買いどんと来い、てなもんです。

 

この前買ったけど、また新しいデザインのクルトガが出たので買った、という話しは、文具の世界にはあふれていると思います。

 

狙ってたあのワンピース、いつの間にか誰かに買われちゃった、ということも、文具の世界では起こらない。

 

いつお店に行っても陳列されていますし、何なら注文だってできます。

 

今は沈静化しているようですが、一時期、オレンズでしたっけ、品薄で入荷なしなんて店頭に貼り出された、人気商品がありましたけど、それは別格で例外でしょう。

 

いつお店に行ってもそこに、いつも自分が買う定番の文具がある。

 

その安心感もまた、文具の魅力ではないかと思います。

 

コンビニのペットボトル飲料やスイーツなんて、週替わりで商品が入れ替わっているというのに、文具のコーナーは、そこだけ時間が止まったようです。

 

キャンパスノートのデザインの変遷ともなると、10年単位で追いかけないと分かりません。

 

文具ほど、ロングセラーが多い業界も珍しいのではありますまいか。

 

冒頭紹介した「野帳」なんて、1959年に発売になって、基本的にデザインは、大きくは変わっていないそうですから。

 

小さい頃からなじんできたデザインの商品が、今でも手に入るなんて、ありがたいではありませんか。

 

その一方で、新商品も次々に現れてきています。

 

昔懐かしいビックの、変わらぬオレンジのボールペンがあるかと思えば、新しいゲルインクのボールペンも横に並んでいるのです。

 

そして、財力があれば、名前入れをはじめ、いろんなカスタマイズも楽しめる、文具の世界はなんて楽しげなのでしょうか。

 

自分の買える範囲でコレクションを始められるというのも、文具の魅力ですよね。