梅雨のうっとおしさから逃れる話が、読書の仕方にねじれるまで
こんにちは。
てらぴーだよ。
雨の夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
新しい1週間が始まります。
どうすれば、このうっとおしい季節を、はつらつと過ごせるのか。
もちろん、エアコンがあって、除湿すれば、かなり過ごしやすくはなりますけど。
かつて、保守の論客、渡部昇一さんは、知的生活には、梅雨を快適に過ごす必要があって、そのためにはエアコンだと、主張しておられました。
そう言えばこの人も、追悼の特別雑誌においては「知の巨人」と呼ばれていたように思います。
まあ、新しい書斎というかお家を建てて、その蔵書の引っ越し代だけで600万円もかかったそうですから、桁というか冊数が違います。
けれどもそこから出てきたもの、すなわち執筆したご本は、冊数や、引っ越しにかかる費用とは、正比例しないもののようです。
偏見ですけど。
確かに、渡部昇一さんは、幾冊ものベストセラーをお書きになっていますけど、知的生産に関する本以外を、読もうとは思いません。
本職の、英文法のご本は、どのようなものがあるのか知りませんし、知ったところで専門的に過ぎ、英検3級どまりの英語力では、まさに猫に小判でしょうから。
知的生産に関する書物であれば、その方法論において、参考になるところが大いにあると思います。
でもそのほかの、社会に向けた論考の数々は、もうわたくしには読む時間が残っておりません。
これでも随分と若い時には、論破してやろうという若者にありがちな、不純な動機でもって、いわゆる保守と呼ばれる方々のご本をば、幾冊も買い求めたものではありましたけども、読んでるうちにこの人たちの物言いと、自分のそれとは交差しないのではあるまいか、との中間報告を自分に向けて出すに至り、読むのをやめました。
ありていに申せば、時間の無駄だと思ったからです。
いつまでたっても大金持ちになるはずもなく、セミリタイヤなんて夢物語なのですから、時間もお金も極めて限られた中で、誰の本を読むのか。
その中に、僕の場合は、保守と言いますか、右と言いますか、そちらの方々は入っては来なかったのです。
その分、内田樹先生を知るとか、高橋源一郎を読み込むとかできたわけで、その成果は置いといても、自分としては、良い読書の時間を持てましたし、充実していたと思ってます。
読書が、結果として、時間つぶしにならなくてよかった。
渡部昇一さんは、一方では多くの人たちから支持されているので、決してそのご本の中身が、いい加減であるとか、質に置いて劣るなどと言いたいわけではありません。
ただ、僕には合わなかった、それだけです。
読書はまさに一期一会。
どんな本と、どのように出会うのか、それが、友人や恋人と出会うように、その後のその人の人生を、大きく左右することがありますよね。
なので、どのような友人たちと付き合っていくのかと同じくらいに、誰の本を主に読んでいくのかということが、重要になってくるわけです。
和洋中、何でもそろったバイキングのように、どんな本を読むか、どのような著者を選ぶのか、消化不良を起こさないように、盛り付けも食べ方も気をつけないといけません。
やがて、あなたの血肉になるのですから。
夏の寒さ対策をして、野帳をガンガン書きたい
こんにちは。
てらぴーだよ。
日が落ちても暑苦しい夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
少し前までは、日中は暑くても、朝晩は肌寒い日々でしたが、今日は朝から暑いし、夜になっても暑いまま。
夏です。
僕は手のひらなどに汗をかくタイプなので、暑いと、書き物をする時に、何か「下敷き」を用意しないと、汗で紙がくっついたり、紙が湾曲したりで、そのこと自体がストレスにもなってました。
学生の頃は、いらなくなった紙を束ねて、「あて布」ならぬ「あて紙」を作っていたほどです。
ハンカチやタオルなどを、利き手である左手の手のひらの下にひくこともあります。
夏は、書き物をするにも一工夫。
最近は、財力に物を言わせて、朝からカフェやミスドに行くことも増えました。
けれどもお分かりのように、そうした店舗では、強力に冷房がかかってます。
エアコンとの位置関係では、時に凍えるほどに。
なので、行くときには暑いのですが、長袖シャツが必須です。
それでも冷え込むこともあるので、新しいカーディガンか何か、羽織れるものが欲しい。
寒いと、冬眠モードになるタイプみたい。
カフェやミスド、ファミレスに行くのは、飲み食いが目的ということもありますが、それ以外に、本を読んだり書きものをしたりということも、大きな比重を占めていると思います。
なので僕の場合、食べたらすぐ退席とか、あまりありません。
どちらかと言えば、コーヒー一杯で、2時間は粘れるよう、若い時から鍛錬をしているので、30分ほどで席を後にするなんて、まず考えられない。
もちろん、本を持たずに入るとか、手帳や野帳に筆記用具もなしで入店、というのも、自分の場合かなりイレギュラーな事態です。
そもそも、手ぶらで外出ということが、まずありませんから。
夏になったら、必ずやテレビで再放送される「火垂るの墓」、その作者である、戦後闇市派の野坂昭如さんは、散歩してておなかがすいてお寿司屋さんなんかに入るとき、何も持ってなかったら、わざわざ本を買って入るのだと、雑誌のインタビューで、写真入りで紹介されていました。
それほどまでに活字中毒なのか作家というものは、とその時は、いたく感心したものでしたが、文庫本を開いて、お寿司をほおばっている写真まであると、なんだか演出のような気がしないでもありません。
それでもその当時は、自分もいつかは、ちょいとお寿司屋さんなんかに入るとき、何も手にしていなかったら、気軽に文庫本でも買える身分になりたいものだとあこがれたのでした。
あれから何十年、ついぞ、回っていないお寿司屋さんに入ることはありませんでした。
代わりに、準備万端整えて、長居のできるカフェの類には、時に入り浸るようにはなってます。
本は読めているので、まあ、良しとしますか。
あ、そうそう、それなのに、冷えすぎた店内では、活力が氷点下になって、動きが止まるという話しをしていたのですね。
その対策として、カーディガンが欲しいと。
もうこうなったら、冬用のジャンパーでもいいくらいです。
寒さに耐えて、じっとしているよりは、見た目がどうであれ、活力が失われないほうがいい。
寒いと、集中力も思考力も低下します、それはもう、あからさまに。
避暑として、避難しているのではありますが、文字をしたためたり、活字を追ったりという目的もあるのです。
夏の寒さ対策をして、手帳ライフを高めていきたいものです。
毎日の変化は微々だけど、ある日、すごく変わっていることに気づく
こんにちは。
てらぴーだよ。
恐ろしく蒸し暑い夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
昼、熱風の中を自転車で駆けた。
一年ぶり。
今宵の蒸し暑さも、一年ぶり。
最近、それでなくても寝つきが悪いのに、寝られるかな。
1日の変化なんて、微々たるものなのにね。
でも、その微々たるものの集積が、今の自分。
習慣が人生を作るとは、けだし名文句。
いつも肌身離さない、コクヨの測量野帳「スケッチブック」だって、記入の仕方はずいぶんと変わってきてると思います。
最初は、単なるメモ帳という位置づけなので、記入するべき事柄ができたときに開くといった使い方。
なので、1冊を終えるのに、数か月とか、もしかしたら1年以上かかっていた時もあったかもしれない。
それから、本格的に、というかメモを日常的にし出して、少しづつ、微々たる変化を通り抜け、メモのスタイルが生まれてきたように思います。
やがて、手帳の補助的な位置づけも広がって、スケジュールは手帳、そのほかのメモ、記録、日記的なこと、様々な情報、ToDoリスト、なんかは「野帳」に書くようになりました。
でも、手帳と野帳でおさまるかと言えば、そんなことはなく、色々なノートやメモ帳にも手を出して、まるで、カバン一杯にノートの類を持っているのがステイタスだと勘違いしてた時もありました。
減らしたり増やしたり、微々たる変化は続くのです。
その量においても、その質(具体的な書き方)においても。
書く内容で、ペンの色を変えたりもします。
今は、特別注意とか、重要、これ忘れたら死になさい項目は、赤。
日記に書くような日常の出来事は、緑。
幾分日記と似てるけど、考えたことなどは、青。
何かしらアイデアを出す時とか、自分の意見を図示したり図解する時は青で書いてます。
なので、野帳において、青のページが多いということは、考え事を進めていたんだなあとか、精神生活が充実していたらしいということが、分かるのです。
実際、青で書くページを増やすのが、目標みたいなところがあります。
青のページが進むと、われながら、ほほう、頑張っているようだ、といった気分になるのです。
たとえ、気になっていることの書きなぐりであっても。
そして、各種情報、つまりは自分の意見や考えではないものは、黒を使っています。
なので、本の抜き書きはすべて黒。
黒のページが多いと、読書が進んだのか、新聞やネットのニューズをまとめたのか、いずれにせよ、お勉強にいそしんでいる姿が浮かびます。
色分けの4色は、昔も今も大好きな「4色ボールペン」から。
一時期、4色ボールペンを見つけ次第購入する、というゲームを自分に課してました。
その結果どうなったか?
増えすぎたボールペンは、時間が経っても使ってもらえないので、次々に書けなくなっていったのでした。
最近では、中国の人たちのような「爆買い」はしません。
でも、たぶんこれから先、一生困らないくらいのボールペンはあると思います。
買ってるのも、4色+シャープペンシルの多機能ペンです。(事態は何も変わっていません)
最近も、少しづつ、野帳の書き方も、手帳の記入の仕方も変わってきました。
そのほかのノートやメモ帳などとの連携も、変化しています、僕たち自身も日々変化しているように。
でも、昨日に比べて爪が伸びているその成長を、毎日記録しないように、日々の微々たる変化には、どこかで鈍感なのでしょう。
でも2週間もすれば「爪が伸びたなあ」と実感できるように、手帳や野帳、ノートに書いていることも、はっきりとした変化や成長として、実感できるようになるのかもしれません。
月の初めに、今月の終わりに自分をどんなことでびっくりさせたいか、そんなことをあれこれ想像しても楽しいでしょう。
日々の微々を続けましょう。
7月だ!手帳も夏仕様にしよう!(さりげなくダジャレ)
こんにちは。
てらぴーだよ。
早くも7月の雨に打たれた夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
雨、と言っても小雨でしたけど。
自転車でお出かけしてたので、早速、買ってはみたもののまだ使ってない「ポンチョ」をば、広げてかぶりましたが、蒸し暑さ倍増。
やはりここは、ワークマンのレインウエアか。
金沢で、お店を発見したので、今度行ってみよう。
今日から7月!
衣替えは6月でしたが、まだ寒くて、冬用のシャツを羽織る日もありましたけど、ここまでくればもう大丈夫。
夏です。
気分を新たにするためにも、手帳にも衣替え、夏仕様にしてみませんか?
普通のノートで、バレットジャーナルにしている人は、カレンダーを手書きしたり、「7月」をレタリングしたり、1ページ丸ごと、夏らしいイラストでデコレーションしていることと思います。
そこまで凝らなくても、手帳の7月のページなどに一工夫して、夏の手帳といたしましょうか。
その前に、カバーを替えるのなんて、気軽に手軽に実行できますよね。
透明なカバーがついているのなら、その間にデザインペーパーを挟み込んだり、気に入った写真やイラストをプリントアウトして、挟み込むのもいいですよね。
実際、いくつかの手帳では、最初から、「カバーが替えられます」とか「カバーを替えましょう」とうたっているものもありますから。
透明なカバーがなくても、シールを貼るだけでも雰囲気は変わります。
夏らしいシールを探してみるのも、楽しい自分イベントになること請け合いです。
手帳の中身に関しては、イラストをちりばめたり、数字などを色分けして描いたり、カラフルでビジュアルなページを作りましょう。
お気に入りの写真を貼ったりする、ビジョンボードみたいなページを作っている人もいらっしゃるでしょう。
あるいは「やりたいことリスト」のページでしょうか。
そのページにも、夏バージョンを登場させましょう。
自分にとっての夏のイメージ、そして今年の夏にしたいことを文字だけでなく、写真やイラストでデコレーションするのです。
できるかどうか、手に入るかどうか、出会えるかどうかは置いといて、7月8月に「やってみたい」「行ってみたい」「食べてみたい」「着てみたい」、何でもいいので写真やイラストなんかで表現してみましょう。
あまりにも多いのだったら、ポスターみたいな「ボード」を用意して、本格的に「ビジョンボード」を作っても楽しいですよね。
その素材となる写真や絵、図やイラストなんかを探すのも、ワクワクするものです。
夏らしいイラストか写真が1枚でも、手帳のよく開くページに貼ってあったら、手帳を開くのが楽しみになるでしょうし、開くたびに、テンションも上がると思います。
あるいは、写真をはがき大にプリントアウトするか、または加工して、「しおり」として使ってもいいですよね。
日に何度も「この夏実行したい」ことを目にしていると、意識だけでなく行動までが、そちらの方向に動くと思います。
そのことが、関係することがらに敏感になって、実行のための情報を得られやすくするのだと思います。
ToDoリストに書いておけば、「しなければいけない」という意識が強くなって、実行に移せる仕組みと似ていると思います。
書いた文字には、自分をその方向に動かしていく力があるのです。
それを、写真などでデコレーションして、さらに色を塗ったりしてカラフルにすれば、視覚効果も倍増します。
それがさらに夏仕様だったら。
さわやかなことこの上なしです。
さらに、ユーチューブで、「夏の音楽」を流したりすれば、全身が、夏に包まれます。
というわけで、ぜひ、手帳を夏バージョンにしてみましょう。
テクノロジーには「頭」がない
こんにちは。
てらぴーだよ。
ベランダでの夕涼みが楽しい夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
まだ蚊も出てきてないので、無防備にベランダで夕涼み。
アウトドアな椅子を出して、飲み物はペットボトル、スマホで音楽も流せる。
テクノロジーとしては、進化しているけど、基本は変わっていないのが、紙に手書き、という文化。
大昔は、地面に棒や指で書いていたのでしょう。
その基本形はさほど変わらず、地面が紙に、棒や指の代わりを筆記具が担当して、おそらくは数千年の間、そのスタイルで来てるはず。
紙が、ディスプレイになっても、文字を打ち込むようになっても、「ペンで描く」文化は廃れていない。
もしこの、紙に手書きの文化が、テクノロジーの発展で変わるとしたら、テスラが進めているとかいう、脳に電極を差し込んで、思った瞬間文字や絵なんかが表示される技術でしょう。
もしそんな技術が、広くいきわたり、学校なんかでも実装されたら、「学習」の在り方そのものが、変わってくるでしょう。
先生が説明して黒板、もしくはホワイトボードに板書、生徒はそれをノートに写す、そんな講義形式の授業は、どんどん過去のものとなりつつありますが、新しい単元内容を理解するために、問題を解く際には、ノートや鉛筆などが、まだまだ有効でしょう。
そうした道具も、タブレットなどに取って代わられる今日この頃、教科書もデジタル化が進むというし、そのうちに、紙の教科書やテストなんかは、博物館入りするのでしょうか?
先生の机のモニターには、生徒の学習態度や理解度、集中度なんかがリアルタイムで表示され、生徒一人ひとりは、各自の理解度に沿った問題に取り組む。
やがて、学年の壁も取り払われて、教室と廊下の区別も無くなり、無学年な学習が、そこかしこで行われるのかもしれません。
読書だって、タブレットでするのなら、図書館に行かなくても、学校の図書館を持ち歩くこともできるでしょう。
データが入っていなくても、ネット経由で、何十万冊、何百万冊から、瞬時に取り出して読書にいそしむ姿が、普通の光景に、実はもうなっているのかも?
どこまでいくんだ、デジタル。
そのうち、知識なんて、カセットテープを取り換えるように、じゃなくて、CDを変える、じゃなくて、USBを差し替える、でも違う、モニターをタッチするだけで、身につけられるようになるかもしれません。
そうなった時、知性は誰が育ててくれるのでしょう。
そうなった時でも、そうなった時だからこそ、武道やお稽古ごとにおける、「師匠と弟子」の関係性が、見直されてくるのかもしれません。
「一人前の寿司職人になるのに10年の修行は無意味」という意見がネットをにぎわしたことがありましたけど、その無意味さの中の意義の在り方が、問い直されてくるかもしれません。
落語家の弟子なんかでおなじみですが、師匠の家に住み込みで雑用をする、そのスタイルや修行の在り方が、もっと深められ議論され、暗黙知として見直されてくるかもしれない。
紙に手書きという文化もまた、「遅れたもの」「テクノロジーの前に消え去るもの」と捉えないで、手で鉛筆やペンを持って字を書くことのいろんな効能を、今こそ捉え直し、再評価し、次代に伝えていかねば、と思うのです。
「紙に手書き」の意味合いは、これからも新しく、問われ続けていくことでしょう。
気がついたら6月も終わりそう、で、7月は何?
こんにちは。
てらぴーだよ。
台所のコバエの増え方に疑義のある夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
「ハエ取りリボン」のおかげで、かなりのコバエを捕獲したと思っていたのに、あっという間に(気分的には)、何百と増えているように思えます、でも。
増え方、おかしくないか?
なんか、卵、幼虫、さなぎ、そして成虫というプロセスを無視して、いきなり成虫が湧き出てきたような増え方。
あっという間に、親から子が、子から孫が生まれているような。
どんなネットワークビジネスもかなわない増え方。
ちょっ、いい加減にしてほしい。
というわけで、今季、2本目のリボンを吊るしました。
そして、いつの間にか、6月が終わろうとしています。
1週間は、俯瞰するのにちょうどいい日数だけど、1ヵ月ともなると、こまめに記録を取らないと、どんなひと月だったのか、薄れてしまいそうです。
いよいよ本格的な夏。
でもその前の梅雨。
このうっとおしさを何とかしのがなければ。
夏は、冷房が効きすぎていると、そこに出入りする前後で、急激な温度変化を体感します、ほとんど無理やりに。
なので、カフェに長時間こもる場合などは、寒さ対策が欠かせません。
コメダ珈琲やミスドなどでお勉強している人も、夏は上着とか持ち込んでいますよね。
僕も、去年初めて、お店に備え付けの毛布のお世話になりました。
暑さ寒さの連続攻撃は、ずいぶんと体に応えるようです。
外に出て、メガネが曇る時さえあるんですから、夏なのに。
手帳に、その日どんな服装をしていたか、イラストなんかで書き記している人がいますよね。
僕も、冬の間、どんな重装備であったか、野帳に書いてました。
夏は、服装も簡略になって、上がTシャツ、下がズボン、足元はサンダル、といった簡単なものなので、記録するほどでもないか、とは思っていましたが、この夏は、それでも書き残してみようと思います。
そのためにも、新しいシャツと夏用のパンツが欲しい。
サンダルも、つっかけみたいな、すぐ脱げるのではなく、古代ローマの兵士がはいていたような、かかとのあたりにも巻き付けるようなやつ。
というわけで、夏のことを考えていたら、物欲リストになりそうです。
でも、今月と違う来月のために、ルーティンを壊してみましょう。
何か新しいことを生活に取り入れて、刺激を与えましょう。
この世の一切は空、でも「モノ」ってあるよね
こんにちは。
てらぴーだよ。
マグネシウムが恋しい夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
連日連夜のこむら返り。
朝起きると、ふくらはぎが痛い。
「マグネシウムを摂れ」とグーグル先生はのたまう。
摂れったって、マグネシウム、どこ?
クルミに含まれているらしい。
クルミなら、毎日のように食べてるのになあ。
「マグネシウム3mg」に引かれて、伊藤園の「健康ミネラルむぎ茶」も買いました。
今夜こそ、こむら返りが起きませんように。
それにしても、マグネシウムとは。
かつて、この宇宙には、水素しか存在してなかった。(正しくは水素の原子核)
それが、核分裂や超新星爆発で、いろんな元素が生み出され、今のこの私たちの体のみならず、ありとあらゆるものを生み出しているなんて。
人間の体の70パーセントは水だ、なんて申しますが、その水を構成している水素なんて、ほとんど宇宙開闢から存在しているのですよ。
そして、気の遠くなる時間の中で、中学の理科の知識では説明が難しい核分裂反応やら融合やら何やらで、炭素ができ酸素が生まれ、鉄までは比較的順調に反応が進んだみたいです。
星の中でできたはいいけど、その星が寿命を迎え、爆発し、元素をばらまかないと、いけません。
また、鉄から先の元素なんかは、もっとややこしい反応や現象なんかで、この宇宙に生み出されたらしいのです。
星が形成され、様々な元素が生まれ、やがて爆発し、宇宙に広がり、また違う星となり、またもや爆発し、そんなことを繰り返して、つまりいろんな星屑が集まって、今のこの私の体となっている。
星屑も、まさか、あの時から何十億年も年百億年もたって、こんなじじいの白髪になったり、鼻水になったりしているとは、夢にも思わないでしょう。
何らかの因縁があって、それぞれ、宇宙のかなたからやって来て、その慣れの果てがこれかよっていう気分。
まあそのうち、太陽が寿命を迎えるころは、肥大した太陽に地球は飲み込まれるそうです。
そしてまた宇宙に散らばるのでしょうか?
元素に、その時々の記憶が備わっていたら、宇宙のどのへんからやってきたのか、分かるようになるのでしょうか。
元素が集まって、体の成分となり、あるいはいろんな、ありとあらゆる物体となり、こうした、地球での生活が実現できてはいるものの、その元素の大本は、「モノ」ではなくて「ひも」の振動らしいというではないですか。
モノがないのにモノができてる。
おまけに、原子や分子の中はスカスカだというし。
お釈迦様が見抜いたように、この世の一切は「空」、空っぽなのでしょう。
何も実体というものがなかった。
それでも目の前には、様々な物体があって、さわれるし、ものによっては食べられるし、でもなぜか、お金だけは「ない」。