本は異次元へのトリップ

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

紙でできた四角いものの代表は本です。

 

ただでさえ魅力的な紙が、束になっているのだから、テンション上がります。

 

それにしても、人はどうして本を読むのでしょう。

 

または、読まなくてはならないのでしょう。

 

地方では、東京などと違って、頻繁に電車に乗るということがありません。

 

仕事か通院でならともかく、移動はもっぱら自動車か、自転車か、後は、歩く。

 

なので、「通勤時間も勉強時間だ」というのは、都会には当てはまっても、田舎じゃ無理。

 

健康のために一駅手前で降りて歩きましょうも、田舎で実行すると大変なことになる。

 

大都会限定ではありますが、その昔は、電車の中ですることと言ったら、まずは読書でした。

 

ところが、近年では、電車で本を読む人などおらず、みなスマホなのだとか。

 

茶店なんかでも、読書の場ではなくなっているのでしょうか?

 

そうなると、読書というのは、「しなければならないこと」とか「せずにはおれないこと」ではなさそうです。

 

昔は、趣味と言えば「読書」というのが、とおりそうばでした。

 

待ち合わせとかで時間があるときには、ちょっとした時間調整に書店が使われたり、待ち合わせの場所にも最適だったはず。

 

その辺の役割は健在なのかな?

 

 

本、と一口に言っても、その中身は様々です。

 

小説であったり、ノンフィクションであったり、ハウツー本もあれば、重厚な専門書もある。

 

本はそれ自体が一つの世界なのかもしれません。

 

時間であれ空間であれ、私たちは、今ここにしか生きられない。

 

空間を飛び越えて、同時にある別の場所にいることはできない。

 

時間を飛び越えて、別の時代を生きることもできない。

 

この体が属しているのは、今ここだけです。

 

けれども、本を読むとき、時間や空間を超えることができます。

 

本の中には、ここではないどこか、今ではないいつかが広がっているからです。

 

想像力とか、イメージする力というのは、おそらくは人間にだけ与えられた特権のようなもの。

 

そして本は、その特質を使って書かれて、特質を使って読まれるもの。

 

自分の身一つは、世界中はおろか、日本中でさえ、くまなく見て回ることはできません。

 

よしんば見て回れたとしても、最初に見たところは、時代の流れの中で、変貌していることでしょう。

 

一次資料にあたることが大事と言っても、歴史の知識を得るのに、原典を紐解いたり、遺跡や遺物を見て回ることも困難でしょう。

 

どうしたって、研究成果を受けとるしかない。

 

宇宙に興味があるからと言っても、ハッブル宇宙望遠鏡を操作できない。

 

その研究成果は見ることができるし、それでいい。

 

本は実に、世界を広げてくれるものなのだ、と言えるでしょう。

 

様々なアトラクションに満ちた遊園地に、学校が併設されているようなもの。

 

どこで遊ぼうが、お勉強しようが、まったくの自由。

 

つまらなければ、途中でやめるのもあり。

 

ただ本の場合には、「手に取る」そして「読む」という、能動的な働きかけが必要です。

 

ここがおそらくは面倒くさい。

 

でも、そこをクリアーしたら、一生遊べて学べるのだから、読書の癖はつけておいたほうがいい、心からそう思います。

 

たいていの本は、封切りの映画一本分以下の値段でしょう。

 

だから、お安く異次元にトリップできますよ。

 

本のあの重さ、手に取った感じ、ページをめくるあの感触。

 

書籍用紙の色合い。装丁。

 

そういったものも、その本の世界を引き立ててますよね。

 

今日少しの時間でも、今ここを離れてみませんか。