読解力は国語だけのものではない

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

よく、読解力っていうけど、中身について、どれくらい議論されているんだろう。

 

そもそも、どういう力、学力を読解力というのか。

 

月刊中央公論の4月号で、東工大教授の上田紀行さんと国立情報学研究所教授の新井紀子さんの対談が載ってました。

 

その中で、お二人とも、読解力が大事ということはおっしゃってるのですけれど、その中身が今一つはっきりしない。

 

読解力というのは、読んでわかる力だとは思いますが、さて、では「分かる」とはどうなった状態なのかとなると、途端に難しくなる。

 

てらぴーは、その内容を自分の言葉で人に説明できる力だ、ぐらいにとらえてます。

 

言い換える力と言ってもいい。

 

要するにここにはどういうことが書いてあったのか。

 

それを、友達に「電話で」伝えられるか?

 

だから、文章を音読できたからその内容を理解している、とは言えませんよね。

 

読めることは、読解の必要条件ではあっても、十分条件ではない。

 

最近とみに思うのですけれど、読解力って、何も国語に限ったことではないのではないか。

 

数学で、生徒に「何が苦手?」って聞くと大抵「応用問題」って答えます。

 

でも、違うと思う。

 

生徒によく言うのは、応用問題なんかないんだって。

 

あるのは、基本問題の組み合わせ。

 

どういうことかというと、応用問題を解くときに、必要になる知識で教えていなかった知識なんてないんだということです。

 

「ああ、ごめん。この解き方を教えてなかったね」ということは基本、ない。

 

それなのに、生徒にしてみれば、この問題の解き方があるはずだから、それを教えてほしいとなるわけです。

 

そうなると、どうなるか。

 

この問題の解き方、あの問題の解き方、解き方を覚えようとするわけです。

 

数学が暗記科目になってしまう。

 

解き方のパターンを覚えていればそれでいい。

 

頭、使ってません。

 

方程式の文章題などでも、「何が分からないの?」と聞くと、「式」という答えが返ってきます。

 

違う。

 

方程式の文章題は、式を立てるまでが勝負だ。

 

あとは計算するだけ。(計算に頭は使いません)

 

それなのに、文章題のどこが分からないのか、考えようとしない。

 

何とか式、あるいは、式らしいものをひねり出そうとする。

 

だから、なんでこういう式になったの?と聞いても、まともに答えられない。

 

自分が立てた式の意味を考えようとしない。

 

式を立てるにあたって、例えばここが、どうして掛け算なのか、なぜここで足し算を使うのか、すべてに意味がある。

 

それもまた、読解力なのではないのかなあ。

 

国語に限らず、他の教科でも大切な読解力。

 

どうすれば伸ばせるのか?

 

輪読会みたいな場所が必要ですよね。

 

それも、なるたけ少人数でね。