死は終わりではないと気づかせてくれた本
こんにちは。
てらぴーだよ。
最近読んだ帯津良一さんの『若者がうらやましがる老人になってやろう』(海竜社)が衝撃的でした。
帯津先生は1936年生まれの御年83歳だそうです。
医師としてやりたいことがあるけれども、死んだ後も研究を続けると決意しているので、死は中断でもないし、したがって後悔もしないのだと。
「死語の世界があるかないかなんて誰にも分らない」とも書いていますけど、そういうふうに考えることで、「死んだらもうできなくなる」という不安とか後悔の念を超えてます。
お見事というほかありません。
ふつうは、死んだら終わりだと考えるので、(今取り組んでいる仕事なりプロジェクトなりが)死によってできなくなるのが嫌だ、とか、死んだら(もうできないーと考えているので)どうしようという不安に付きまとわれがちになります。
その結果、今を十全に楽しめない。
楽しんでいても死が頭をかすめて、「死んでしまえば今しているこの楽しみもなくなるのだ」と考えてしまい、死への恐怖とか不安が生じてしまいます。
その分楽しみは減らされることになる。
けれども、死んだ後も今やっていることをやり続けるのだと思いなおすことで、死による「中断」は無くなります。
したがって、「死んだらどうしよう」がなくなる。
結果、今に集中出来る。
これはお見事な発想の転換というほかありません。
もちろん、死んだ後、あの世でも死ぬまで取り組んでいたことが、そのまま続けられるかどうかはわかりません。
でも、分からないのだから、「できる」と思ったっていいはずではないですか。
ただ、やったことの結果をこの世に知らせられないだけです。
「そんなバカなことがあるわけない」と言ったところでだれにも証明できていないのですから。
自分の仕事が中途半端で終わってしまう、その不安は払しょくできるのではないかと思います。
不安や恐怖を考えながら生きていくよりは、希望やワクワクを感じながら齢を重ねたいものです。
歳を重ねると、どうしても「死」を考えます。
そして、死はなぜかいつの間にか、「終わり」であると考えられてます。
やっていたことの終わり、もうそれ以上ものごとを進めることはできなくなります、それが死。
お付き合いの終わり、それまでの人間関係が終わります。
会えてた人にも会えなくなるし、新しい出会いもなくなります、それが死です。
日常生活の終わり、毎日の生活が無くなります。食事をとることもなく、着替えもしなくていい、お風呂に入ることもなくなります。
すべてが新しく更新されることは無くなります。
なぜなら死んだからです。
だからこそ、死には恐怖とか悲しみとか、不安などのマイナスの感情がくっついているのでしょう。
そのこと自体は仕方がないとしても、問題なのは、そういう感情を感じることで、「今」を楽しめなくなることです。
そのマイナスの感情は無くなりません。
無理やり今を楽しもうと思っても無理がある。
ならば、開き直って、死んだ後もやり続けると宣言すればいい。
死は終わりではないと決めるのです。
死んだ後のことはわからない、でも自分はやり続ける、なぜならそれが好きだから。
死んだ後のことはわからない、だから自分はやり続ける、なぜならそれがときめきを生み出すから。
ちょっとした発想の転換で、心は軽くなるものです。