自分の人生を生きる、のが難しい、でも、
Mさんへ
こんにちは。
てらぴーだよ。
大学生の時、同級生にAという男がいたんだ。
と言ってもクラスが同じだったというだけで、友人とまではいかなかった、そんな間柄。
新入生だった4月ごろから、Aは周りに、自分は古文書がいかに好きかをとうとうと話すのだ。
歴史学科だったので、それもありだとは思ったものの、もう自分の専門を決めているような感じだった。
中世だか近世の古文書を読むことがどんなに面白いか、先月はまだほとんどが高校生だった(と思われる)クラスメートに語るのだ。
サークルにも入ったらしく、何やら古文書のコピーを手にしているのを見たこともある。
さて、そんな古文書ラヴの彼には、ただ一点、問題があった。
本当は、問題などではないのだが。
それは、彼が開業医の息子、それもおそらく一人っ子であったということだ。
しかも、親戚も医者だらけらしい。
いわゆる医者一族のようなのだ。
だから彼は、半ば自嘲気味にこう言っていた。
「(周りからは)どうして文学部の史学科なんかに進んだのか、医学部を受け直すべきだ、と責められてます」
あんなに古文書が好きなのに、そんな事情があるんだと聞き流していた。
そして、確か、半年もたたないうちに、彼の姿はクラスから消えた。
噂では、やはり退学して医学部を受け直すということだった。
残念ながら、知り合い程度で、共通の友達もいなかったので、その後彼が医学部に進めたのかどうかはわからずじまいだ。
でも、何年浪人しようが、彼は医学部を受験し続けるのだろう。
運命、と言ってしまえばそうなのだが、翻って僕たちは、どれだけ自由なのだろう。
誰にでも、Aと同じような「逃れられない引力」を受けているのかもしれないね。
けれども、それは往々にして、思い込みであることも多い。
僕たちは、どれだけ自由なのだろう。
本当の心の底からやりたいことがあって、それをするのに、いったいどれだけの制約があるのか。
そんなことも明らかにしないまま、幻の制約に騙されて、自分で自分を縛ってはいないだろうか。
「自分には、◯◯がない、だから無理だ」とか「自分は、◯◯だ、だからできない」。
目の前に餌がある、でも透明な壁がある、すると鶏はいつまでたっても餌にありつけない。
ひたすら、前に行こうとするからだ。
実は、壁は一面だけで、横から回れば餌に到達できる。
壁だと思っていても、進行を全て阻むものではないのかもしれない。
僕たちは、自由なのだ。
ただそのことに気づいていないだけなのかもしれない。
鶏のように。
自分の人生を生きよう、たとえどのような障害があろうとも。
あのAは、おそらく(何しろ開業医の息子で周りもみんなお医者さんなのだから)医学部に入ったことだろう。
病院を継いでいるだろう。
でも、空いた時間で、相変わらず古文書を読んでいると思う。
心から好きなことは、誰にも取り上げることはできないのだ。