野帳と手書きとライバルと
こんにちは。
てらぴーだよ。
来年度の手帳が続々発表されてます。
まだ店頭では見てないものの、来年度はどうなるのか、期待が高まります。
多分、カスタマイズの自由さが、「ウリ」になるのではないかと考えてます。
手帳の柱は、スケージュール機能とメモ。
この二つでしょう。
では、野帳は?
野帳はどのような位置を占めるのでしょうか?
野帳は究極のメモ帳にして、変幻自在な手帳でもあるという可能性を秘めたポテンシャルなノートなのです。
例えてみれば、iPS細胞のようなものかもしれません。
つまり、どの部分にでもなれる、皮膚にもなれるし、様々な臓器にだって培養することができる。
野帳に、決まった使い道などありません。
カレンダーは付いていないし、日付も入ってはいませんが、その分自由度がハンパない。
バレットジャーナルっぽく使うこともできれば、トラベラーズノートのようにも使える。
学生の授業用ノートとしては物足りないけれども、本の抜き書きならお手の物です。
簡単ですが、マインドマップもかけますし、マンダラノートにだって転用できます。
モレスキン並みに小型で、モレスキンよりも薄いので、ポケットに忍ばせておくことに邪魔はありません。
てらぴーの中では、ライバルは、同じ会社の「ジブン手帳」と、ベストセラーの「ほぼ日手帳」。
どちらも書くという楽しさを追求しています。
紙が束になって綴じられていて、使うときにめくるあの感触。
書き味を再現できても、紙の束の質感や紙をめくる触感は、デジタルでは無理でしょう。
すぐに、お目当のページを開ける機能もいろいろありますが、「えーっと、どこだっけ、確かこの辺に書いたはず」と手でページをくるあの体感、あのアナログ感は廃れないものと信じてます。
紙はそれだけで美しい。
束になったらもっと魅力的で、手に持ったときの重さや感触は、何かで代替できるものではありません。
それに、わざわざ色ペンなどで記入する楽しさもあります。
効率を考えれば、一本のペンで、あらゆる色まで出せて、太さも自在に変えられるデジタルが優れているのかもしれませんけど、1本1本手に持ったり選んだり、キャップを閉めたり外したり、その手間のかかり具合が、実感を高めているのだと思います。
つまり、便利さもいいけれど、それとは異なった次元で、「自分が今生きて、そしてこれを書いている」その実感が欲しい。
書くことで、生きている感覚を確かめたい。
紙に触れる、手でペンを持って書く、ペンを取り替える、ページをめくる、そうした行為の一つ一つが「生きている」実感につながるのでしょう。
どんなに便利になっても、手書きは廃れません。
デジタルの次は、アナログですから。