自分の年表を作るのだが、考えたことや感じたことも残していく
こんにちは。
てらぴーだよ。
怠惰な週末を過ごしております。
これといった成果が出なくても、手帳の時間です。
今日、並びに今週を丁寧に振り返りましょう。
時間だけは、どうすることもできません。
とどめておけないし、後戻りもできない。
自分が、どんなに怠惰でも、昼はやがて夜になり、寝ようが寝まいが、朝になります。
しかもその朝は、日付が進んでいるのです。
こうしてうつうつと日を過ごしていると、「いつのまに?」「いつの間にこんなに時間が経ったの?」という、残酷な目にも合うのです。
自業自得とはいえ、さしたる成果も手にしないで、ただ齢だけ重ねて立ち尽くすことになるとは。
本当に時のたつのは早いものです。
早いというより、容赦ない。
少しも待っていてはくれないのですから。
きちんと、自分がどんな生活を送り、その都度何を考えていたのか、記録に残していかないと、自分年表を作った時に、「この十年空白」みたいな事態に陥るかもしれません。
生きるというのは、ただ生活を重ねてルーティンを繰り返すことではないはずです。
朝起きてご飯を食べて仕事に行って帰って来てご飯を食べてお風呂に入って寝て・・・
それでも、そんな繰り返しでも、十年という時間の長さで見れば、変化もしてるでしょう。
ですから、何も起こらなかった、ということではない。
その間の記憶の飛んでいることが問題なのです。
自分は何をしてきたのだろう。
どんな成果を上げたのだろう。
そういったことが何を見ても分からない。そうしたときに人は、むなしさを感じるのかもしれません。
けれども、確かに生きてきた、その時のその時間も。
確かにある、自分という存在の一貫性。
あの時もその時も自分だった。
ずっと自分だった。
その自分の履歴を可能な限り残していくのが、人生の密度を上げる手段なのではないか、とも思えるのです。
生きてきたという感覚だけではなしに、こんな生活を送っていた、こんなことがあってこう考えた、こういう時にこんな選択をした、この時にはこんな感情を味わった。
自分の人生が、スクリーンに映し出されるのなら、そのスクリーンショットを残していく感覚でしょうか。
まずは手帳に、思索の跡は野帳にあるいはノートに、具体的な足跡を残していく。
何をしたのかという事績だけではなしに、その時に何を考えていたのか、どんな感情だったのか、そんなことも記していけたらいい。
いつ何をした、それだけの年表は、あまりにも退屈でしょうから。