今日の手帳を「タイムカプセル」に育ててみる
こんにちは。
てらぴーだよ。
午後の日差しは夏!てな日の夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
散髪に行って、髪が薄くなったせいか、午後の日差しの直射が熱うございました。
石川県では、中学高校の部活が解禁になったらしく、街を行けば、制服姿に行きかいます。
何がどうなったら終息なのか、先行き不透明です。
手作りマスクをしている人も何人か見かけました。
何が起こっているのか、概略だけでも手帳に記入して、「時代の証言者」になりましょう。
案外そうした日記なんかが、後で(数十年後とかに)歴史の史料としての価値を持ったりするのです。
「チャールズ皇太子も陽性」とか、1行でいいので書き添えておくと、後で見返したときに、「おお、そうであったな」とコロナ騒動を思い出せるでしょう。
自分の生活は、どこかで確実に時代とつながっていますから。
普段はそれほど強く意識できなくても、身の回りの在り様には、ちゃんと時代が刻印されているはずです。
いつもの買い物のレシートだって、物価の様子だけでなく、この時は「消費税が10パーセントだった」ことが分かりますから、それだけでも、史料です。
新聞の1面に載るような大きな主語の話は、何十年後でも何百年後でも簡単に調べられると思いますけど、その時期の市井の人々がどんな暮らしをしていて何を考えていたのかといったことは、なかなか残らないものです。
でも、社会史的な関心も高まっているので、今は「普段の暮らし」も記録されているかもしれません。
それでも、レシートの現物なんかは、残りにくいと思います。
おそらく「家計簿」なんかの形で世相の史料として集められているのではないのかな。
かねてから、1度行ってみたいのが、「手帳の博物館」。(名称は違うかもしれません)
個人の手帳を集めたものだそうです。
寄贈してもらうのが基本で、もう数千冊集まっているとか。
入館すると、実際に手にとって見られるわけです。
まったくの赤の他人の方の手帳。
しかも同時代の人が中心。
たとえて言うならば、友達か友達の友達の手帳を垣間見る感覚でしょうか。
本人も、見られてもオッケーだと思ったから寄贈したのでしょう。
なので、見るほうにしてみたら、何らやましいことはないはずなのに、「え、見ていいんですか」てな気分になっちゃいます。
細かい書き込みも思わず読んでしまうかも。
手書きの手帳なので、人柄とか、何があったのかとか、どんな気持ちだったのかとか、想像が膨らむと思います。
イラストの書きようや字の乱れなんかも気になると想像してしまう。
「なぜここで終わっているのか」なんて、気にしだしたらきりがありません。
でも、そんな空想も妄想も、手書きならでは、ですよね。
これが電子データだったら、味気ないことこの上もない。
紙に書かれた筆跡だけでなく、ページのめくれ具合や余白の残し方、そんなところからも、書いた人の「その時」を想像してしまいます。
手帳や日記、ノートは、単なる記録媒体ではありません。
書かれた当時の空間までを、書いた人の思いごと残していくような「タイムカプセル」でもあるのです。
書いた時には、字の癖だけでなく、その時の気分に加えて感情までもが記されているようです。