不思議なつながり、実は通常の出来事かも

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

外出もままならない夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

「袖すり合うのも他生の縁」てなことを言いましてな、ほんのちょっとした関係にも、自分の知らない過去生の因縁があるのだという。

 

そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 

それにしてもどうしてこんなことわざが生まれたのだろう?

 

そして受容されてきたのだろう。

 

もし過去生というものが、まったくの作りごとなら、こんなことわざも生まれなかっただろうし、誰かがつくったとしても、流布はおろか伝えられることもなかったと思うのだ。

 

どこかでわたしたちは、生まれ変わりを信じていたのではあるまいか。

 

それで、自分に関係してくる人はもちろん、赤の他人でも全く関係がないとは言えないので、その関係を大切にした、とは言えないか。

 

コロナでストレスが高まっているから、他人のちょっとした咳などにも、いつも以上にピリピリしてしまう。

 

マスクしろよ、とか、こんなところで咳するな、外出は自粛だろ、などの自分のことを棚上げにして相手を責める。

 

どこかでガス抜きが必要だ。

 

けれども、自分の周りにいる人は、かつては血を分けた肉親だったとしたら。

 

赤の他人とは言え、そこにその人がいるためには、ものすごい偶然が必要だ。

 

少し家を出るのがずれただけで、その人には会えないのだ。

 

家を出る時間だけではない。

 

なぜその時間に家を出ることになったのか、それは、昨夜何時に寝たのかが絡んでくる。

 

なぜその時間に寝たのかを説明しようとしたら、昨日1日の行動を説明せねばならない。

 

そうやってさかのぼっていくと、生まれたときにまでたどり着くに違いない。

 

そう考えると、目の前の赤の他人であっても、その人とは、「生まれたときから」今日ここで会うようになっていた、と思えないだろうか。

 

ここでこうなるためにはこれがこうでないといけなかった。それがそうなるためにはこれがこうでないといけない。

 

そんな必然の流れが、誰に人生にも流れている。

 

ただ、さかのぼれないだけだ。

 

そうやって考えていくと、偶然などないのだと気づくだろう。

 

自分が今、この場所に、こんな服装でこんな状況でいることは、もう決まっていたかのようだ。

 

果たして自由意思はあるのか。

 

誰に人生にも、不思議なめぐりあわせ、セレンディピティがあると思う。

 

ここでこの人にこのタイミングで出会ってラッキーといったようなことでも、手繰っていけば、必然の糸が見えてくるかもしれない。

 

僕にも、どう考えても不思議だ、という出会いがある。

 

まるでこうなるのを見越していたかのように、何十年も前から布石が打たれていたのだ。

 

「ただの偶然」と忘れないように、メモしておこう。

 

そのメモがたまるにつれて、自分はなんてラッキーなんだ!と、こおどりしたくなるかもしれない。

 

偶然の幸運、セレンディピティは、実はしょっちゅう起こっているのかもしれない。