生きても死んでも、楽しいを常に選択しよう
こんにちは。
てらぴーだよ。
誕生日の夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
死んだ父の年齢にまたひとつ近づきました。
父は64歳で亡くなりました。「まだ若いのに」と言ってもらえる年です。
とはいえ、そろそろ僕にも、終活が必要なのでしょう。
財産といったものは、何も持ってないので、すべて処分してもらってかまわない、と思っていても、そのことを誰かに頼むか、あるいは何かに記録しておかないと、僕の体も含めて、「処分」してくれる方が困ることでしょう。
メメントモリ、という言葉があって、死を思えということらしいです。
まったく、人間は「死」というものに過剰な思い入れをしていると思わざるを得ません。
いつの間にか、「人生100年」だなんて、寿命が延びてますが、だまされてはいけない。
いわゆる「平均寿命」というものは、「平均余命」と言って、その時点で生まれた赤ん坊が、後どれだけ生きられるか、という目安でしかないのだそうです。
なので、今日61になった僕が、後40年近く生きられるのかと言えばそうではない、ということになります。
実際に、長寿県として注目されていた沖縄県が、その順位を一気に27位くらいにまで下げたことがありました。沖縄では、「27ショック」と呼ばれたそうです。
これは、戦後生まれた人たちが、アメリカ並みの高カロリー食で育ったから、と説明されています。
つまり、お年寄りがなくなったのではなくて、その後の世代が50代とかで亡くなったから、というのが真相らしいのです。
なので、「人生100年だ」と思い込まされて、食生活を高たんぱくのままにしていたら、100年はおろか80まで生きるのも難しくなるでしょう。
ただ、個人差というものがあって、酒は飲むたばこは吸う、好物はステーキというお年寄りが存外長生きだという例もあります。
定期的に健康診断を受けていた、そのことがストレスになって、寿命を短くした、という研究報告もあるようです。
小さいことにくよくよしない、というか、やっぱりストレスはよろしくないのですね。
「死ぬこと以外はかすり傷」という教訓もあります。
思い切り楽しむことが、「あれをしておけばよかった」といったたぐいの後悔を残さない秘訣でしょう。
実は「いつ死んでもおかしくない」という条件は平等です。
ただ、長く生きている人たちは、若い人たちに比べて死にやすい、という傾向はあるのかもしれませんけど、いつだって確率は「生きるか死ぬか」の50パーセントづつだと思っているのです。
例えば、買い物に外出するとしましょう。
道路に出ると、車が走っていますから、事故に合うかもしれない。
自分の不注意で、もしくは相手の不手際で。
この場合の確率を、外出する回数とか、走っている車の台数、運転手が高齢者かどうか、認知症を患っているかどうかの割合、そんなこんなを掛け合わせて確率を求めることにどれだけの意味があるのでしょう。
そんなの、いったん外に出たら、「生きて帰って来られた」か「事故にあった(その内実はまた別)」の二つしかない、と基本的には考えます。
なので50パーセント。
降水確率が30パーセントだからといって、ひんぱんに10回外出したら、そのうちの3回は雨だった、なんてことがあるものですか。
というわけで、今日も無事に終わりそうだ、ありがたい、でいいではないですか。
布団に入ったらリセットです。
昨日も事故にあわなかった、今日も事故にあってない、やばい、明日事故にあう確率が高まっているかも、ということもありません。
生まれたからには死亡率100パーセントです。
だったら、楽しいことを考えましょう。
考えても消えてしまうから、ノートに記しましょう。
自分の人生を自分の手に戻しましょう。
いつだって、笑うのか泣くのか、ポジティブを選ぶかネガティブにするか、その選択の連続ではないでしょうか。
お正月でもなく、4月1日の年度始まりでもない、自分の新しい一年が今日始まりました。
生きてこの日を迎えられてラッキーです。
今日はもう十分ですよ。
明日は明日のラッキーが待ってます。
お休みなさい。