字を書く学習を廃れさせてはならない
こんにちは。
てらぴーだよ。
田んぼでのカエルの合唱がにぎやかな夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
散歩コースにある田んぼはほとんど田植えが終わり、かわいらしい苗が植わっています。
僕が中学生だった時代、春の田植えとか秋の稲刈りの時期は、部活動がお休みでした。
まだまだ生徒の何割かは農家だった時代だったのです。
水田耕作民だけが、日本の農家ではありませんが、農業の中心に水田による稲作がいつまでもありますように。
日本でも焼き畑が行われていたり、稲作に頼らない山の民がいたりと、「農業」も多様だったのです。
文化とか伝統といったものは、日本全国一律というものではなく、時代的にも地域的にも多様性をその内容としていたのでしょう。
その多様性は、今後ますます重要な視点となることでしょう。
教育も、だから、全国一律にという幻想を捨ててもいいのではないかと思います。
日本全国みんな一斉に、にとらわれない視点で、考えていくことが、大切な視点となることでしょう。
ただ、教育の現場で、外してほしくない「伝統」があります。
それが「手書き」。
何のことはない「手で字を書く」ということですが、パソコンやタブレット、スマホに代表されるネット配信の授業や学校行事が普及定着すると、ノートに字を書く頻度はどうなるのでしょうか。
授業なら、先生が板書したものをノートに書き写しますが、ネット配信の授業でも、ノートは取られているのかしら。
練習問題を解くときはどうなるのでしょう。
普通なら、ノートに解いて、答えを書いて、丸付けをする(あるいはしてもらう)という流れですが、モニター相手だと、答えは打ち込むかタッチするかになるのではないでしょうか。
そうなると、ノートの書き方がぞんざいになりはしませんか?
先生が黒板に書いたものを、ひたすら書き写すのがお勉強、という時代ではありませんけど、字を書く文化はすたれて欲しくないと思うのです。
知性の働きに、手の動きとか皮膚感覚が、大切な役割を果たしていると考えるからです。
AIに人間のような知性が生まれないのは、「体を持っていない」からだ、という意見を聞いたことがあります。
言うまでもなく、知性とは記録の総量のことではありません。
「物知り」必ずしも「頭がいい」とは限りません。
習ったことを記憶したり、自分なりにまとめたり、考えたり、つなぎ合わせたり、再構築したり、人間の知性の働きは多岐に渡りますし、感情も幾分かは関係していると思ってます。
その中からある部分だけを取り上げて「計算可能」な形に置き換えて発達させたものがAIだと思います。
なので、人間らしい「考え」にはまだまだ遠いでしょう。
仮に、演算能力が今まで以上に向上しても、最後の関門、「手で考える」が待ち構えています。
書くことは、単なる筆記を超えて、知性の在り方や延ばし方、深め方にまで関係していると思います。
ですから、文章の単純な書き写しも頭の働きをよくするには、効果があるものと考えています。
モニターをただ見るだけでなく、手を積極的に動かして、字をたくさん書く、そんな学習ができていれば言うことはありません。
また、紙に字を書くことは、単純に楽しくもあります。