新しい大人の学び、人間にできてAIにできないこと

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

アロハシャツでお出かけした日の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

夏に近づいている今日この頃、コロナな夏を人類は初体験するのでしょうか。

 

学びのスタイルは、どのように変わっていくのでしょう。

 

議論の活発な様子を「口角泡を飛ばして」なんて形容しますけど、今そんなことしたら大変ですよね。

 

学校では、画面に向かって、粛々と自分の課題に向き合うのでしょうか。

 

手書きのノートを取るという学習は、時代遅れなものになるのでしょうか。

 

みんなが同じことを学んで同じことを覚えて、その記憶した割合が点数表示されて成績となる、そんな旧式の学び方もこの際おさらばしてしまいましょう。

 

ある情報源、例えばテキストであったり書籍、またはネットでの言説から、どんなことを吸収して何をどのように考えたか、その深さと広さで「知性」の質もまた担保される、そのような、記憶力一辺倒のお勉強ではない学びを考えたほうがいいでしょう。

 

大人だって、うかうかしていられません。

 

会社組織の在り方の基本から、変化していくことでしょう。

 

というよりも、変化しないと、生き残れないのだと思います。

 

コロナが露わにした世の中の仕組み、「これって、そもそもいらないんじゃない?」「なくなっても平気かも」といったものごとについて、これから淘汰が始まると思います。

 

大人の勉強は、どこに向かうのでしょうか?

 

「先生」の説明を過不足なくまとめ、「きれいなノート」を仕上げ、もれなく記憶する、そんな優等生的な学びの在り方も変わっていかざるを得ないと思います。

 

記憶力に関しては、グーグル先生にかないません。

 

データ処理については、AIが凌駕しています。

 

頭の働きを筋肉に置き換えて考えてみましょう。

 

人間が、筋肉つまり筋力で行ってきたことは、道具や機械化で置き換えられてきました。

 

その結果、ずいぶん楽にもなり、また人の筋力ではできないことも機械にお任せできるようになりました。

 

そうやって、人類は、文明を進めてきた側面があろうかと思います。

 

機械の力の前では、人間はかないません。

 

でも、それで人間の体の価値がなくなったかと言えば、そんなことはなく、「力」以外の分野で、「体」の在り方は価値を失ってません。

 

「力」の分野に関しても、機械には負けるだろうけれども、人間同士の切磋琢磨に感動が集まったりします。

 

それはスポーツの分野です。

 

人間の動きの滑らかさや柔らかさ、躍動感といったものには、機械では表すことができない「美」を感じさせます。

 

ならば、同じようなことが、頭、頭脳の働きの分野でも、繰り広げられるのではないか。

 

数年前よりかまびすしい「AIに負けない」とか「AIに代替されない」といった文言に、人類の期待が込められているようです。

 

とはいえ、今後ますますAIが社会に進出してくるのでしょう。

 

ということは一方で、人間の仕事が置き換えられていくことを意味します。

 

それでもなお、人間にできてAIにはできないこととは何か?

 

例えば、「いい加減に済ます」というのはどうでしょう。

 

何かを覚えても、人間は「適度に」忘れます、しかもそこに法則性はない。

 

機械は基本忘れません。パソコンやスマホに保存しておいたデータが一部アトランダムに消えていたなんてことはありません。

 

1冊の本を読んでも、どこを覚えているのかは人それぞれ、中には間違って覚えていたりします。ここにも、法則性はありません。

 

あらゆる情報のインプットに対して、人間は適当です。

 

けれどもその適当さが、創造性にもつながる。

 

かと言って、テキトーにやれば、新しいものを生み出せるかと言えば、そうとも言えない。

 

その辺も、行き当たりばったりなのです。

 

人間の脳って、最初から、どこか「ボケ老人」なのでしょう。

 

AIがかなうわけがありません。

 

大人の学び方について考察したかったのに、おかしな結論になってしまいました。

 

これもまた、人間らしい、いい加減さということで、大目に見てください。

 

たぶんAIではこうはいかないでしょうから。