ウイルスの突然変化に対抗して、変わり続けよう
こんにちは。
てらぴーだよ。
雨が上がって涼しい夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
いわゆるウイルスを「生き物」に入れてもいいのではないかとの見解が出てきていると聞きます。
生物と無生物の境目は、自己増殖できるかどうかなのだとか。
ウイルスは、自分では増えることができなくて、人さまの(人ばかりではないけれど)体に侵入して、「設計図」を吐き出し、その細胞の自己増殖機能を横取りして、ひたすら自分が細胞分裂するそうです。
たとえるなら、よその会社に入って、「ちょっとコピー機お借りします」と言ったが最後、自分ばっかりコピーして、その会社をつぶしちゃうようなもの。
あまりにも多くのコピーを取るものだから、コピーミスも頻繁に起こる。
つまり、「突然変異」が付きものになる。
新型コロナウイルスも、より凶暴に変異しているとネットのニュースで見ました。
「コロナウイルス」という枠組みは同じなのに、その中身が微妙に変化しているのでしょう。
どうして、ウイルスってやつは「宿主」を死に至らしめるのでしょう。
新型コロナのやつも、人間の体内に入って、肺炎などを引き起こさず、脂肪の燃焼を高める何かを生み出すとか、生活習慣病を改善する酵素かなんかをまき散らすとかすると、ここまで嫌われもしなかったろうに、と思ってしまいます。
「共生」は、難しいんですかね?
いくら変異をしても、相変わらず「新型コロナウイルス」であると分かるならば、その「アイデンティティ」といったものが確固としてあるのでしょう。
私たちも同じように、体のあちこちは日々変化していますが、ずっと自分であるという確信めいたものは確かにありますよね。
今は「寺田」だけど、数年前までは「木村」だった、ということはありません。
年を取るとか、やせるふとる、髪が伸びるあるいは薄くなる、着るものが変わる、さまざまな変化はあるのに、相変わらず「自分」です。
今日寝て明日目覚める時も「自分」だという自覚めいたものが確かにある。
でもそれはどこからくるのでしょうか?
手帳を開いて、どんなにページをさかのぼっても、それは自分の行動記録です。
たまに忘れていることもありますが、自分の字であるし自分が書いたことに変わりはありません。と、信じている。
まあ、ウイルスと違って、人は、自分は一人なので、アイデンティティが持ちやすいのでしょうか?
これがいろいろに分裂したりするとややこしい。
昨日この茶碗でご飯を食べたのは誰だ?自分です。
それを洗っていないのは誰だ?自分です。
行動と責任がはっきりしています。
これが、「この茶碗を使ったのは?」と聞かれて、自分じゃない、自分②だとか、「じゃ、洗わなかったのは?」昨日の当番は自分③だろう、なんてことになると収拾がつかなくなる。
自分はこの世に一人で、これまでもそうだったしこれからもそうだろう、でも、その中身は変わり続けるだろう。
ていうか、変わり続けないと面白くない、そんな気がしています。
いつも同じことをしているなんて、退屈ではないですか?
同じことをして、同じような反応で、同じような日記をしたためる。
それは実は「退化」なのかもしれない。
自分にとっての「新しいこと」はまだまだ無限にあるでしょう。
そのすべてを堪能することはできないにしても、手を出さないまま終わるのではなく手を出し続けて生きていきたい、その方が健全であると言えませんか?
ウイルスに負けないくらい、人も進化を目指しましょう。