衣替えで、冬服ばかりか夏服も断捨離、紙ものはいつだ?

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

衣替えを終えた夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

実のところ、数週間前に冬服をしまい夏服を出すというのはやってはいたのですけど、今日改めて、追加も入れて捨てる決心をしました。

 

ごみ袋2つ分になりました。

 

擦り切れてもう着られないものから、着れるけど着なかったもの、着れるのだけれど、どうも自分のイメージではないものなど、冬服ばかりではなく夏物も合わせての詰め合わせセットができました。

 

中には、買ったはいいものの、それほど着用していないものもあって、並べていくと、思わず「ごめん」てな気持ちにもなっちゃいます。

 

様々な理由で、もう着ることはないなというものとお別れです。

 

以前はこれができなかった。

 

「もったいない」世代ですかね。

 

僕の両親も、包装紙をきれいにたたんで取っておく人々でしたから。

 

服には、それほど執着がないので、「これは着られるけど捨てよう」という決断に迷いはありませんでした。

 

けれども、改めて部屋を見渡してみると、何に使うのかわからないものや、もう1年以上使ってないものでいっぱいです。

 

それらは自分にとって執着のあるもの。

 

「いつか片付けよう」と見るたびに考えてはいるものの、先延ばしになっているのですね。

 

けれども今回の衣類の大量捨てにあやかって、捨てる体質を育てたいです。

 

ああ、でも、紙ものは別、自分の中では。

 

確かに、すべてを一部屋に集めると、大変な量の紙ものがあると思います。

 

一生かかっても書き切れないほどのメモ帳もあるでしょう。

 

捨てたとしても、生活に何らの支障をきたさない過去の日記の類もあります。

 

もう発売されていない文房具の、小さなパンフレットのようなものもあれば、歴史的な価値があるのかもしれないが、その価値が出るのは数千年後でしょう的なフリーペーパーもある。

 

実際に見たり手に取ると、「どうすんだ、これ」てなるんですけどね。

 

ただの紙もいろいろあります。

 

その多くは、ノートやルーズリーフ、カードだったりします。

 

どれもこれも自分が、その時は夢中になって集めていたもの、のはずなのに。

 

そして、ただのごみではなくまだ実用性もあるのに、なぜかそのままに、僕の人生の同伴者となっているのです。

 

なので、積極的にそれらに何かを書いて、しかる後捨てようとは考えないのですよね。

 

もうあるだけで幸せなのだから。紙に関しては。

 

誰にでも、どうしても気になって、集めてしまい、捨てられなくなっているものの一つや二つはあるのではないでしょうか?

 

捨てずに、あるいは捨てられずにそこにあるということは、何かしらの存在意義を有しているのでしょう。

 

それらが無くならないでそこにあることで、どこかで自分の精神の健全化に寄与していると信じたい。

 

そうでもないと、見るたびに自己嫌悪になっちゃいますから。

 

十分な量がありながら、まだ持ってないものや新しいものに対しては、「欲しい」と思ってしまいます。

 

せめては分類と置き場所を工夫して、すぐ取り出せるようにしないとね。

 

「死蔵」を続けることは、モノに対しても失礼なことになりますよね。