頭体心すべてを表した自分の「形」とは?
こんにちは。
てらぴーだよ。
蒸し暑さを感じた日の夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
暑いだけならまだしも、蒸し暑い日々がこれから続くのですね。
憂鬱。
お天気の在り様で、その日のエネルギーも変わってきます。
私たちは、どんな形をしているのでしょう。
体つまり肉体のカタチなら、鏡を見るとか(左右、本当は前後が反転してますけど)、写真に撮ってみればわかりますが、頭や心に「形」はありません。
それでは、肉体に、肉体の中に備わっているのかと言えば、そうでもないような。
いったい、私たちはどんな「形」をしているのでしょう。
思想家にして格闘家の内田樹先生が、文学をめぐる講演で、興味深いことをおっしゃってました。
それは、私たちの過去の記憶が瞬時にして書き換わるというのです。
何かを選択した都度に、それまでの記憶がすっかり書き換わる。
多分これを踏まえて、別の対談では、こんなこともおっしゃってました。
トラウマなんてないんだ、と。
過去が瞬時に書き換えられているのなら、固定された過去もないわけで、その「ない過去」から影響など受けないだろうということみたいです。
それにしても、瞬時に書き換わる過去って。
と考えていましたら、Youtubeで、たまたま示唆的な映像を見たのです。
それは、自分たちで作った音楽を見える形にしている映像でした。
楽器を鳴らすのですが、その音をスピーカーの上に置いた板の上にまかれた「砂」で「波形」としてあらわす。
あるいは、楽器の音を周波数別?に並べたガスの炎の揺らめきで表す。
といった具合に、音の「波形」を見える化しているのです。
そしてすごいのは、音が変わるとまさに瞬時に波形も様々に変化するということ。
過去の書き換えも、もし行われているのなら、このような波形の変化として記述されるに違いありません。
考えてみたら、私たちの五感というものは、何らかの波を捉えているわけです。
光であったり物質であったり、でもその正体は波形つまり「波」なのです。
だとするならば、初めに申し述べた「私たち全体のカタチ」も、波のような形としてあらわされるのかもしれません。
波は、いくつもの合成も可能だと聞きます。
波で表される以上は、どんなに込み入っても「方程式」のように記述できるのかもしれません。
私たちには形があり、その中で様々な臓器が働いています、また、いろんな各種「センサー」で外界を認識しています。
さらに、おびただしい物質の移動や交換もあります。
体の中での移動交換もあれば、体の外との物質のやり取りだってあるでしょう。
常に動いていて、物質は変化したり生成したりしています。
ひと時も休んではいない。
ですから自分というのは、自分という一貫性を保ちつつその実構成内容を変化させているのです。
この意味で、昨日の自分と今日の自分は違う、違う分子構成になっている。
でも、「自分」であるという認識は揺るがない。
なんとも不思議です。
私たちは、中身を変えつつ「死ぬ」まで自分であり続けるのです。
だとしたら、問いかけるべきはこの1点。
どんな自分へと変わると楽しいですか?
あるいは、どんな自分を自分に見せますか?
「1点」じゃないじゃん。