AIに負けるな、勝つ、それが意味することとは?

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

帰宅すると下着を取り換える夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

外出するだけで汗だくになります。

 

帰ってすぐすることは着替えること。

 

今夜もまた寝苦しくなるのかなあ。

 

書店に行くと「AIに負けるな」とか「AIに勝つ教育」なんて感じの新刊書をよく見ます。

 

AIのせいで、仕事がなくなる(奪われる)といったことも話題です。

 

人工知能は、どんどん職場や教育の現場に進出しているのでしょう。

 

けれども、そのような書名や意見に接するたびに、ある違和感を感じざるを得ないのです。

 

はたしてAIって、勝ったり負けたりするものなのでしょうか?

 

AIは「人工知能」ということですが、その正体はコンピュータでしょう。

 

そして、コンピュータの日本語訳は「電子計算機」。

 

AIと言えども、あの中でやっていることと言えば「計算」なのです。

 

将棋を指すと言っても、人間みたいに「考えている」わけではありません。

 

盤面を決められた、あるいは獲得したディープラーニングに従って、瞬時に膨大な計算をすることで「次の一手」を出力している。

 

なので、テータがあいまいさを含んでいたり、数値化できない事柄だったりすると、おそらく「考える」こともできないのではないでしょうか?

 

その昔、議事録や書類の類は手書きでした。

 

代書屋さんのような筆記専門の人がいて、ガリを切ってガリ版で刷って居たりしたのです。

 

今はワープロもあるしコピー機もあります。

 

同じ書類をそろえるのに、時間はかかりません。

 

それなのに、「コピー機に負けるな」と謄写版の印刷速度を上げようとしてもむなしいだけです。

 

時代の流れは技術の革新でもあります。

 

ある方面の技術が進展するのを止められない場合だってあるでしょう。

 

謄写版で会議資料を迅速に印刷いたします」と売り込んでも相手にしてもらえません。

 

AIも同じなのではないかと思います。

 

人工知能」と言いながら、やってることは計算ですから。

 

技術のある側面を高速にしただけ。

 

もとより、人間がかなうことではないのです。

 

けれどもそれは、人間が負けたとか敗北したとか、AIに命令を下される立場になるということでもないと思うのです。

 

人間の「知性」の働きは神妙にして不可思議です。

 

その全容が解明されたとは言い難い。

 

脳の働きのある部分を「機械」で置き換えたらどうなるのか、ということをやっているに過ぎない。

 

人って、記憶をする時に記憶だけではないですよね、必ず何かしらの「ノイズ」も絡んできていると思います。

 

でも(おそらく)AIには「よそ見」ができない。

 

ある事柄を記録するのに、ここだけぼんやりしてて覚えていなかった、ということがない。

 

一つのことを覚えるのに、その人なりの個人的な関連付けが発生することもないでしょう。

 

人間ならば、例えば授業ノートを見返しているときに、「あ、ここで先生が受けないギャグを言ったよね」なんて関係のない「記憶」にアクセスすることもありますし、それが法則性をもって再現できるわけでもありません。

 

AIは便利な技術です。

 

ただ設計するのは人間なので、人間の思惑が反映されるでしょう。

 

AIの倫理観は人間由来のものになると思います。

 

結局のところ、試されているのは人間の方なので、負ける勝つといった対立姿勢ではなく、どのように社会に受け入れていくかが問われることになると思うのです。

 

コロナに関して「適切に怖がる」といった文言が目につきました。

 

同じように、AIに関しても、「適切に、そして理性的に怖がる、あるいは受け入れる」ことが大切だと思うのです。