戦闘機が頭上を飛んでいて五月蠅い!いったいいくらで飛んでいるんだ?
こんにちは。
てらぴーだよ。
(おそらく)戦闘機が飛び交う夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
小松空港に隣接?して航空自衛隊があるせいか、時折りそこそこ大きい音を響かせて戦闘機が飛び交うことがあります。
たいていは、気の遠くなるような、機影の姿も確認できないくらいのはるか上空を飛んでいるんですけどね。
もちろんその時は、エンジン音、それほど気にならないです。
でもここ数週間、「低空飛行」が続いている。
住宅地の上空なのに、いいのか?
半世紀ほど前には、金沢の住宅地への墜落事故が起きてます。
この時には、確か小学生が犠牲になったはず。
戦闘機の機体そのものも高額なら、パイロットの訓練にも大変なお金がかかっているのでしょう。
開発費の段階から、関連費なんかも幅広く含めて計算したら、ものすごい額になるのでは、と思います。
しかも、購入した後も、メンテナンスだけでなく、コンピュータシステムなんかのアップデートもありますから、維持費がまた高くつく。
もちろん、現役の「武器」なので、いつでも出撃できるように整備しておかなくてはなりません。
高価なものだから大事にしまっておく、というわけにはいかないのです。
それにしても、この世界的なコロナによるパンデミックの時代に、どうして国同士や国とは呼べない集団とも、対立し続けないといけないのか。
この「対立」にかかるお金や労力、物質的並びに人的エネルギーは、総額いかほどになるのでしょう。
そしてそれらを、いつまで払い続けなければならないのでしょうか?
人類に「英知」があるのなら、あると信じて、もうそろそろこんないたちごっこはやめたほうがいいのではない、と素朴に思います。
それが、哲学であれ宗教であれ、高貴な方の教えであれ、人々を分断し対立へと向かわせる内容であるならば、そんなものは「屁のツッパリにもならない」(キン肉マン)
同じ人類のはずなのに、少し何かが違うと、その違いが価値づけされて、いとも簡単に「差別」や「排除」、「対立」の理論的根拠となってしまう。
相変わらず米国では、人種差別が根強く残り、わが国では、アイヌの歴史や生活を展示する専門の博物館が開館したと聞きます。
解消されない差別もあれば、相互理解への試みもある。
差別や対立と言っても、露わになっているものもあれば、普段は目立たないように潜行しているものもある。
大きな、民族的な分断もあれば、ごく小さな日常的な「差別」もあります。
けれども、例えばコロナのような「外敵」にさらされたら、分断だ対立だ、あいつらは俺らとは違うんだ、なんて言ってられません。
どこが憎いのか今ひとつ分からないところもありますが、とにかく、「対立するあいつら」を殺し尽くしたいためにかけているそのお金をば、単純に言えば、「仲良くしよう」のために使うお金に換えることはできないのでしょうか?
「できる」と思うんですけどね。
「もうやめた」って言えばいいだけなのでは?
もちろん現実的には、その後が大変でしょうけど。
世界を見渡してみると、そんなことが無責任に言えるのは、我が国を置いてほかにないではありませんか!
建て前としては、職業軍人がいないはずので、世論の反対もそれほどではないのかもしれないと…。
科学技術は、AIの進化もあって、さらに加速されていくでしょう。
ということは「最新兵器」は、あっという間に「旧型」になり果てるということでしょう。
車なら、何年落ちということでずいぶんディスカウントしてもらえそうですが、兵器にそんな商習慣、あるのでしょうか?
人件費を除いた防衛費を解体する勇気のある議員の方はいませんか?