頭を他人に譲らないで、メンテナンスしよう
こんにちは。
てらぴーだよ。
部屋全体が暖められている夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
今住んでいるアパートは、昼間に温められるようで、夕方になってからも、部屋のあちこちが暖かいのです。
奥まったトイレの床までが暖かい。
日が沈んだら、外の方が涼しいんじゃないかと思えてきます。
ボールペンのインクは、この暑さのせいで、サラサラに流れるようで、書きやすいったらありゃしない。
ただ、思考の方が、この暑さで働かなくなっているので、野帳のページも進みません。
それにしても、思考はどこからくるのでしょうか?
自分が考えているようで、実はそうではないのかもと思わされることもあります。
何も高尚な事柄を考える時でなくても、何かを見た瞬間に、例えばそれを「木」であると認めたときに、ほとんど同時にしかも自動でいろんな「判断」や「評価」、「連想」が始まりませんか?
木がある、ああ木だ、で終わるのではなしに、「大きい」とか「葉っぱがいっぱいだ」とか「なんの木だろう」とか、いろんな連想が頭に沸いてきて、しかもそれらを制御できない、自分の思考なのに。
目の前にない事柄でも、似たようなことが起きたりします。
例えば、唐突に昔聞いた歌謡曲なんかが頭の中にリフレインされてくる時って、ありませんか?
しかも、自分で止めることができない。
少し前は、いしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」でした。
数日前から、弘田三枝子の「夢見るシャンソン人形」に変わりました。
弘田三枝子さんの場合は、訃報に接したからという理由付けができますけど、「ブルーライトヨコハマ」は訳が分からない。
しかも、繰り返しますが、自分で制御できないのです。
いったい誰が、ぼくの頭に「ブルーライトヨコハマ」を流しているのか?
もしかしたら、ことは「音楽」に限ったことではないのかもしれません。
つまり、ぼくたちは、自分で自由に物事を考えているようで、その実、条件反射的に世間で言われているような言説を繰り返したり、誰かの意見をなぞったりしているだけではないのか。
自分のオリジナルな意見なんて、どこにもないのではあるまいか。
これまでも、毎日いろんな情報に接して、時代の流れとか、大多数の意見とか、世間の常識とか、気に入った人の考えなんかを取り入れているうちに、頭の中にたまってきたそれらの意見が結びついて、いつしか「自分の意見」として形作られただけなのではないか。
なので、自分で考えたと思っていても、それはどこかで誰かのあるいは時代や社会が共有する考え方を取り入れているだけなのではないか。
もちろん、自分オリジナルでないといけないなんてことはありませんし、他人の意見でも、共感できるのなら、自分の意見に付け加えることも可能でしょう。
問題は、無批判に外部の意見を自分オリジナルであるとそのまま借用することでしょう。
自分は何一つ考えてはいないのに、他人の意見をそのまま借り受けて、さも自分が考えたようにふるまう。
それは、避けなければならないでしょう。
気をつけないと、頭の中によみがえる懐かしの歌謡曲以上に、「他人の意見」というものは、入り込んでくるものです。
まるで、ウイルスのように。
頭の中で日々増えているから、賢くなったのかと思ったら、すべて「他人の意見」だった。
ということのないように、熱中症に気を配るのと同じように、頭も乾きすぎないように、潤いを与えましょう。
その潤いは、四角い形をしています。
本です。
集中して読みづらい季節ではありますが、避暑のついでに読書を。