命の流れの中に生きている、ということ
こんにちは。
てらぴーだよ。
「終戦記念日」の夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
私たちは、命の流れとでも言うべき連鎖の中に生きています。
自分は今、確実に生きているのだけれど、それは自分が単独でこの世に生を受けたのではなくて、父や母さらには父母につながるおびただしい「命」の連鎖と言いましょうか、つながりがあってここにいるのです。
そのつながりにおいて、誰一人として、「いなくてもよかった」ということにはならない。
おそらくは、何億人何兆人の命の連鎖の中に、今の自分の命というものが、ある。
しかもそれは、自分だけに限ったことではなしに、今地上にいるすべての人に、その「命」の流れがあるのです。
時間を、世代をさかのぼればさかのぼるほど、自分につながる命は増えていきますが、一方で、世界の人口というものは減っていくわけです。
ご先祖様が、何億人何兆人にも増えていくのに、その時代の人口というのは今よりも少なくなっていく。
だとするならば、導かれる事実はひとつ。
あなたと私のご先祖様はどこかで同じ人だった。
うんと長い目で見たら、どんな人とも親戚や兄弟みたいなもの。
顔かたちどころか、人種や民族が違っても、あなたと私は、お互いのおじいさんのおじいさんの・・・おじいさんが同じ人、ということになるのでしょう。
おばあさんでも同じ。
父方母方も関係なく、どこかでつながっているのです。
なんとも不思議。
だから、その命の流れを「故意に」途切れさせてはいけないのでしょう。
一方、私たちは、生きていくために他の「命」を必要とします。
中には、人工の、生きていない食材もあるでしょうけど、たいていは、生きていたものたち。
その命を、食事として体に取り入れることで、私たちは命をつないできたのです。
命として生きていくためには、他の命を必要とする。
けれども、命は無くなるのではなく、形を変えて生き続けるのです。
都合のいい論理かもしれませんけど、命を粗末にしないためにも、自分の命がどこからきているのか、食事のたびに体に取り入れていく命について考えてみてもいいでしょう。
こうして私たちは、様々な命の流れというかつながりの中にいるわけです。
繰り返しますが、その流れを途切れさせてはなりません。
私たちのこの体が、おびただしい、でも目に見えない小さな「細胞」から成り立っているように、私たちの社会というものもまた、小さな命の集まりからできているのでしょう。
一つ一つの命は小さくとも、どれもが皆、必要な命。
この命はいらないとか、この命はなくても構わないということはないのです。
この命は大切だけど、この命には価値がない、ということもありません。
この命は、こっちの命の二つ分ということもない。
そうした命がつながり合って、重層し、立体的な織物のように広がっていくのです。
様々につながった青い「交流電燈」(宮沢賢治)。
「戦争」は、命をないがしろにする。
命を価値づける。
そして、命を絶やしてしまう。
戦没者を「数字」にしてはなりません。
それは命ではないのですから。