行ってしまう夏に執着、やがて来る秋にも執着
こんにちは。
てらぴーだよ。
雨が降って涼しくなった夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
窓を開けていると、時折り涼しいを通り越して少し寒いくらいの風も吹きこんでくる夕方。
夏も終わり、なのでしょうか。
ああ、今年の夏はあれをしなかったなあ、ということがあるのなら、忘れないうちに手帳に書き記しておきましょう。
何しろ次の夏は、ほぼほぼ1年後なので、新しい夏に出会うと、今年取り残した夏のことを忘れている確率は高いものです、今年がそうだったように。
海に行きたかった。
山に行きたかった。
入道雲を見たかった。
流しそうめんをしたかった。
スイカ割りをしたかった。
浴衣でお出かけしたかった。
浴衣姿のまま、輪になって、線香花火をしたかった。
スイカを井戸で冷やしたかった。
お風呂上りに縁側で涼んで、うちわであおぎつつ、蚊をつぶしたかった。
蚊帳に入りたかった。
プールサイドに寝そべって、耳穴の奥から水が「じゅわっ」と垂れてくるのを感じたかった。
キャンプファイヤーをして、「マイムマイムマイムマイムマイムレッセッセ」と叫びたかった。
やかんに直接口をつけて、麦茶をゴキュゴキュゴキュと飲みたかった。
こうしたことって、今だから沢山思いつくけど、そのうち次の季節に紛れてしまって、どこかへ行ってしまいます。
だから、忘れないうちに、手帳に箇条書きしておきましょう。
来年への宿題のように。
季節というものは、きちんと平等に流れていきます。
その年によって夏が二つ続くということはありませんし、夏の次が今年は冬、ということもありません。
ひたすら順番に来ては終わってゆく。
そこに優劣はありません。
個人的な好き嫌いならあるでしょうけれども、夏がよくて冬はだめだ、ということはないのです。
ただただしかるべき特徴を持った季節というものが、1年の中で繰り返される。
その仕組みは、地球が、地軸を傾けたまま太陽の周りを公転しているから、ということなのでしょうけれども、そうした事実から、こんなにも豊かな「季節」というものが生み出されてくるなんて。
まったく、季節のある国に生まれて得した気分になります。
ならば、その季節を味わいつくしたほうが、四季のある緯度に住んでいる我々の義務と言えるかもしれません。
夏は行ってしまいつつあるので、秋、秋について妄想を膨らませましょう。
秋と言っても長いですから、月毎のお楽しみを考えてもいいですよね。
例えば、食欲の秋とは申せ、いつ頃が食べごろなのか、食材によってずれたりしますから。
天候の変化も、秋の初めごろと終わりごろでは異なりますから、行動予定にも違いが表れるでしょう。
手帳のマンスリーに、その月にしてみたいことを書き連ねてみてはどうでしょうか。
9月には9月の楽しみがあって、10月には10月でないと楽しめないことがあるかもしれません。
11月12月ともなれば、服装も気温なんかも冬仕立てへと移行するでしょうから、その時期ならではの行動予定が組めると思います。
去年の手帳や日記なんかを持ち出して、何をしていたのか、何をやれなかったのか、確認してみても楽しい時間が過ごせるでしょう。
とはいえ、今年はコロナ禍。
まだまだ制限がかけられているとは思いますが、とりあえず、やってみたいことを書き出しておくといいかもしれません。
たとえできなくても、似たようなことにするにはどうしたらいいのか、知恵が浮かぶかもしれないではありませんか。
「ああ、今年はこれはムリだな」と企画を流してしまっては、その「やりたいこと」は消えていくだけですけど、紙に書き出して可視化させておくと、「どうしたら実行できるだろうか」という方向に頭も働くでしょうから。
できるかどうかはさておき、「やってみたいこと」でマンスリーを埋めてみましょう。
今年できなくても、来年できるかも、その執着は、悪いものではないと信じます。