今ある文具には、今という時代性が刻印されている
こんにちは。
てらぴーだよ。
新しいペンを買った夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
「新しい」といっても、新製品ではなくて、ゼブラの多機能ペンなんですけどね。
もう十分持っているはずなのに、新製品が出たら欲しくなったり、新製品でなくても買い足したくなる。
それが文房具なのでしょう。
考えてみたら、不思議ではないですか。
同じものを、しかも今使っているものがあるのに、新たに買い足すなんて。
例えばお箸、いくつありますか?
例えばフライパン、いくつ持ってます?
自家用車、何台あるでしょうか?
よほどのお金持ちでもない限り、たいてい一人に一つで済むはずなのに。
用途が細かく分かれていて、使い分けをするのならともかく、いっぺんにいくつも同時に使わないのに。
でもそれが、コレクターだったりマニアだったりするのでしょう。
もしかしたら、フライパンだけが、なん十個もある、という方もいらっしゃるかもしれません。
世界は広いのですから、使う当てもないのに、部屋中に眼鏡が飾られているお家だってありそうです。
そう言えば、この前ネットで、三菱の霧ケ峰というエアコンだけ、何十台も集めているという人が紹介されてました。
とにかく「霧ケ峰」を集めているのだそうです。
文具と違ってエアコンなので、それなりに場所を取りますが、実家が農家か何かで結構広い、それで家中を霧ケ峰にしているのだとか。
民家の和室に、エアコンが重ねられ並べられた景色は、ちょっとシュールではありました。
確か、スズキコージさんの絵本だったと思いますが、かのおフランスに、小石を集めてそこそこ巨大なお城を作った郵便配達屋さんが実在したとか。
とにかく小石を集めてはセメントなどで塗り固め、お城のような家というかモニュメントを作り上げたそうです。
確か、その「功績」が認められて、国から表彰されたはず。
小石集めも、そこまでいくと、歴史上の人物になるのです。
ひるがえって見るに、僕の文具コレクションなんて、彼らから見たら鼻くそみたいなものです。
いや、コレクションだとも認めてもらえないかもしれない。
別段、部屋中にあふれているわけでもありませんしね。
かつては、本にうずもれて死にたい、なんてほざいていたのに、その本のほとんどは処分しちゃいました。
文具だって、セカンドストリートの人に来てもらったこともあります。
何かを集める、集め続けるというのは、本人の趣味的な嗜好以上に、空間や経済の許しが必要なのでしょう。
発売からの三菱「ユニ」を全種類コレクションしている人がいるかもしれないと思うと、嫉妬に狂いそうです。
ロゴなんかも、少しずつ変化しているんでしょうね。
だから何?って感じですけど、愛好家としては、できるだけ集めたい、ただそれだけ。
そして、人知れず夜中なんかに、集めたものを眺めながら、自己満足に浸るのです。
花王のお月様のマークとか、森永のあの天使とか、タイガー魔法瓶の虎とか、初代から並べてみると、ずいぶんと変化してきているのが分かります。
そう言えば、国民的大学ノート、コクヨの「キャンパスノート」も、そのデザインは変化しているのでした。
優れた芸術作品は、保存されますが、あまりにも身近な日用品は、それを作っていたメーカーでさえ、保存していないことがあります。
タイムカプセルのように、とにかく文具を集めた博物館ができないものでしょうか?
文具のその微妙な変遷の中に「歴史」もまた宿ると言えば大袈裟でしょうか?