手帳は「半製品」、でも「工芸品」になる
こんにちは。
てらぴーだよ。
追加の夏!な夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
もう来ないだろう、秋に向かうのだろうと油断させておいての、この暑さ。
先日のあの涼しさはフェイントだったのね。
残暑が終わらずとも、手帳の季節は進みます。
スケジュールの管理が、雲の向こうに行こうとも、紙の手帳は無くなりますまい。
なぜか。
紙の手帳というのは、実は、「半製品」とでも言うべきもので、完成品ではないのです。
さらにそれは、文具と連動しているから。
つまり、手帳のページというのは、何かしらの線や数字、文字が印刷されているとはいえ、それは、書くためのガイドのようなものなのです。
ノートの罫線の延長のような役割。
そこに、オーナー、つまりはあなたが、日々の何やらを書き込んで、完成に至るのです。
ですから、何も書かれていない手帳や日記帳というものは、製品としては半人前なのです。
まだ完成されていない。
もし新しい手帳を買って、1年何も書かないでいて、1年後に、
「これは私の手帳です」
と言ってみたらどうでしょう。
言われた方は、キツネにつままれたような気持になるのではありますまいか?
「え?でも何にも書いてないよ、これ?」といったふうに。
何も書かれていない手帳は、誰のものでもない、手帳として出来上がってはいないのです。
「白紙」、ではないものの、手帳のしかるべきページにあれこれと、さらには自分なりの工夫を加えて、書き込んでいってこそ、「その人の手帳」となるのです。
それはまるで、白紙のキャンバスに(ありきたりな表現)、自分だけの物語を書き込んでいくようなことなのかもしれません。
いわば、自分の手でひとつの「工芸品」を作り上げていくような、と言ったら大袈裟でしょうか?
でも昨今の、カラフルにもほどがあると思える手帳を見ていると、これはもう、手帳というスペースにちりばめられた宝石箱や!(今では使われなくなった表現)、と思えてきませんか?
文字だけでなく、イラストはもちろん、中には本格的な「絵画作品」があったりします。
さらに、ペンだけでなく、シールやマスキングテープ、付箋など、この手帳のデコレーションのために独自の進化を遂げた品々が、文具店には所狭しと並べられているのです。
写真の切り抜きもあれば、自分で撮った写真の貼り込みもある。
まさに、小さな「スクラップブッキング」の世界が広がっているのです。
しかも、こうしたスクラップ作業を「出先」でも行えるように、文具もコンパクトになっています。
ホチキスは薄くなり、筆箱に入れてもかさばりませんし、ハサミなんかも、ペンタイプになって、なんなら胸ポケットにさして携帯できるほどです。
付箋もマステもテープでさえも、小さくなったり薄くなったり丸められたり、携帯性が進化しています。
しかも、文具のかさばりに対応するように、筆箱も大型化。
もはや筆箱ではなくて(第一筆は入っていません)、ポーチへとトランスフォーメーションしているのです。
さらに、一部のポーチはテーブルに立つ!
場所を取りません、というか、手帳をデコレーションする作業を邪魔しません。
持ちつ持たれつとはこのことでしょう。
手帳を書くということは、あなただけの「工芸品」を作るということなのです。
文字がほとんどだったあなたの「今日の記録」が、カラフルになり、映像的になり、立体的になり、3Ðへと進化し、そのうちホログラムよろしく浮かび上がってくるかもしれません。
そこまでいったら、それはもう手帳ではなくて、「動画」です。
タブレットと脳の電極がシンクロして、頭で思い描くと動画が自動で編集できて保存できるようになったら、紙の手帳も終わるのかもしれませんけど、まだまだ紙には紙の魅力というものがありますから、廃れることはないでしょう。
手帳を選ぶと同時に、ペンはどうしよう、新しいマステが欲しい(これは切りがありません)、シールも書い足したい(これもきりがありません)、ポーチの中身も考え直したい(これは楽しいものです、おススメ)、と考えているうちに、心は文具屋さんか雑貨屋さん、100均のお店に飛んでいるのです。
それはそれで、なんとも楽しい「煩悩」アワーなのですけれど。