書くことは自分を客観視すること、コミュニケーションのために
こんにちは。
てらぴーだよ。
思ったよりも冷え込んでいる夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
快晴といってもいいくらい晴れていたのに、なんだか寒い。
思考力もやる気も凍結してしまって、動くことができません。
ああ、冬なのだ。
年末に向けて、ますます手帳が話題になるでしょう。
A5やB6といった大きさや、マンスリーだけかウィークリーもあるのかといった形式、メモページも含めた全体の厚さ(したがってページ数)、自分のライフスタイルに合わせて、手帳を選べる時代なのです。
本やノートのような、綴じ手帳もあれば、学生時代が懐かしくなる、ルーズリーフのようなバインダー式もありますし、薄手のを複数セットにして使う形式のもあります。
結局のところ、どの手帳を選んでも、その人が使いやすければ、「正解」なのでしょう。
こうした書き方、使い方は、この手帳じゃないとできない、ということは原則ないと思います。
なので、自分が使いやすい、手にしやすい、持ち運びしやすい、机やテーブルに置いてあるといい感じがする、といった「感覚」で選べば、まず失望することはありますまい。
たとえ、異なった手帳の複数使いとなっても。
あとは、その手帳の記入欄や余白に、何を書き込んでいくのか。
どうせなら、文字でもイラストでも記号でも、書けるところを書けるだけ、埋めてみてはいかがでしょう。
ちょっとした余白に、お気に入りのペンで、水玉模様をあしらうだけでも、雰囲気が変わります。
マーカーをただ塗るだけでも、なんだかそのページがカラフルに見えてきます。
「色付きの女でいてくれよ」なんて歌があったように覚えてますが、毎日の生活だって、白黒よりは、カラーの方が生きてる時間にあふれているとは思いませんか?
もしかしたら、草間彌生先生のように、終生のテーマに出会うかもしれません。
水玉は、人まねになっちゃいますけど、同じ色合いの図形か何かが、さらにはその繰り返しが、自分が一生かけて追い求める図章だ、とか。
まあ、そこまでいかなくても、文字を書いていたり、図やイラストを描き続けていたりすると、今まで気づかなかった自分なりのこだわりも見えてくるかもしれません。
思考の癖、といいましょうか。
人はどうしても、自分が中心だと考えているので、どんなに極端でも「ふつうはこうだろう」と思いがちです。
ある時それを他人に話して、「え!そんな風に考えるの!?」と驚かれた経験は誰にでもあるのではないでしょうか?
自分の考え方、感じ方、物事のとらえ方を検証する、すなわち外に出して客観視してみる、という訓練に、この「書いてみる」ははなはだ有効だと思います。
思わぬ「先入観」や「偏見」を持っていたりするものですよね。
もちろんそれが「普通」なのだとは思いますけど、あまりにもかけ離れた「捉え方」からは、自由になることも考えていいのではないでしょうか?
「自分は今までこのように考えてきた、だからほかの人もそのように考えるべきだ」というところにとどまっていては、コミュニケーションに支障をきたすでしょう。
けれども、自分の考えを端から間違いだとして、修正しなさいというのではありません。
要は、自分の意見が他人と違っていることが認められるかどうか。
自分の意見も意見の中の一つだし、他人のそれも一つの在り方に過ぎない、その上でどう折り合いをつけていくのか。
その際に、「自分が正しい」と双方譲らないのであれば、相互理解も進みません。
コミュニケーションは、説得合戦ではないのですから。
もちろん、妥協も相手の意見を理解することも、自説の放棄や敗北を意味しません。
こんな時代だからこそ、体で握手やハグはできないものの、言葉の通い合いの中で、にじり寄ることや「エアーハグ」を目指そうではありませんか。