大判のノートに、これまでの選択とその結果を書いてみた
こんにちは。
♪雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう♪な夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
また大雪なのかな?
あれが自分の「ターニングポイント」だった、と思える決断とか選択が、誰にもあると思います。
あるいは、人生の分かれ道とか。
あなたはどうですか?
明け方、布団の中でまどろんでいた時に、そういった、人生の分かれ道的な状況を思い出し、その時どのような選択をしてきたのか、思い返すのもいいかも、との思い付きが頭に浮かび、起きだしてから、A4のノートを広げました。
小さい頃は、まだまだ自分で選んでいるという意識も希薄だろうと思い、大学入学から振り返ってみることに。
どうしてあの大学にしたのか、選択してみてどんないいことがあったのか。自分に問い直し、ノートに書いていきました。
卒業してからの、就職や、僕の場合はJターンをしているので、そうした大きめ節目ごとに、いつごろどんな節目があったのか。
そして、それぞれについて、どのような選択をしたのか、選択してみてどんないいことがあったのか、丁寧に思い出していきました。
これまでに、何度も思い出したり、紙に書き出したりしていたことなので、割とすらすらと書けたように思います。
その時はつらい選択だったことも、後から見れば、大正解ということが多いです。
というか、そんな風に考える癖がついているのかもしれません。
例えば、東京にいたころ、自分からしたくて引っ越しをしたことはほどんどなかったんですよね。
お金もかかりますし。
その時は、なんでこんな時期に引っ越す羽目になるんだろう、と自分の運命を恨んだりもしましたけど、後から見れば、あの時引っ越して正解なことばかりでした。
引っ越しによるマイナスより、新たに得たことの方がはるかに大きかった。
あの引っ越しがあったおかげで、あれができたとか、あれを得られたというプラスの方が大きい。
その流れが今につながって、今の自分があるのですから。
もちろん、そうじゃない、もっとプラスのことが、あっちの道にはあったかもしれない。
でも、もしあの選択をしなかったら、こうなって、それからこうなってたかも、というのは、最初の「こうなっていたかも」までで終わりでしょう。
その後の、「こうなっていたとしたらこうなったかも」と仮定をつなげるのは意味がありません。
「こうなっていたかも」だけでおしまい。
仮定の仮定はさらに不安定で、考えるだけ無駄なような気がします。
そうやって、自分が選択しなかった、あの時ああして入ればをあきらめると、結局ベストな選択を重ねてきたのではないかと思えてきます。
そうした、過去何十年かの選択の果てに、今の自分がこうして生きている。
まだはっきりとした評価を出せない最近の選択に関しても、選択の後でプラスになっているのだと思うようにしています。
まだまだ「道半ば」なので、今いるところが「何かに導かれてきた」ところだとはまだ思えませんが、そのうち、過去のあれこれがつながっていくのかもしれません。
コロナ禍で、大きな選択をせざるを得なかった人も多いと思います。
でも、これも進化の一コマと考えて、新しい、より生きやすい社会が求められていると思いましょう。
そして、その、コロナの後の社会は、何らかの形で「全員参加型」になるといいなと思います。
ぜひ、大判のノートに、自分の夢を書き出してください。
個人的な夢で構いません。
その、個人的な夢が集まって、「みんなの夢」へと育っていくかもしれません。
でも、何も書かなかったら、何も動きません。
幼稚園児みたいな無邪気さで、これからの生き方を考えてみましょう。
♪幸せは歩いてこない。
だから歩いていくんだね♪
昭和でスマン。