クモが糸を吐き出すように、言葉を紡いでみよう

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

積雪が大したことなくてよかった夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

でもまだ大雪警報らしいです。

 

結構近場で炸裂している雷が気にかかる。

 

ノートやメモ帳、もちろん野帳などに、何かを書きつけているときって、二通りの書き方というか、言葉の紡ぎ方があるようです。

 

一つは、あらかじめ大体のところを頭の中で作成してて、いわば出来上がった文章などを書き連ねる書き方。

 

そしてもう一つが、頭の中には文章のストックのようなものはないのだけど、まさに筆に任せるまま、指先が文章を生み出していくという書き方。

 

書き連ねてみて、初めて自分でも、こんなことを考えていたのか、なんて思ったりする、そんな書き方。

 

日記なんかの場合だと、前者の方で、大体書く内容とかが決まっている。

 

そう言えばこんなこともあった、と思い出して書き加える時も、ほとんどが既知の事柄で、新しい発見のようなものはない。

 

対して後者の、書いてみて初めて分かる内容というのは、自分が考えたことなのに、なんだか新しく、なんだか新鮮に感じる。

 

まるでクモが、その都度糸を吐き出すように。

 

クモの糸について詳しくはないのだけれど、あの糸って、あらかじめ全部作っておいて、丸まったひものカタマリを体に収納しているのではなくて、その都度作り出しているのでしょう?

 

そうじゃなかったら、糸を吐き出すときにこんがらがったりするよね?

 

僕たちの直感とか思い付き、発想なんかも同じように、紙に手で書き出して初めて生まれる、そんな気がしています。

 

だから、出ない時は何をしても出ない。

 

でも空っぽかというとそんなことはなくて、出る時はすごく怒涛のように、あるいは立て続けのように出たりする。

 

紙に手が触れたときの触感とか、ペンを握った時の感触、そして字を書く時の、ペン先の紙への引っかかりや、漢字を思い出しているときのイメージ、書いている自分の字を見たり聞いたりしている時の、脳への刺激。

 

そんなクオリアいっぱいの感覚が、どこからか直感やら新しいアイデアやらをもたらすのではないのかしら。

 

何にもアイデアがない時でも、罫線も何もない白い紙を前にして、手でペンなどをもてあそび、頭はリラックスさせておくと、いつの間にやら動き出す、なんて早々うまくはいかないけど、でも、何もないのに確かに言葉やイメージが浮かんでくる、そんな経験誰にでもあるでしょう。

 

時には、本当にこれ自分が書いたのか信じられない内容だったり。

 

ただし、だからと言って優れているわけではないところが、ちょっと悲しかったりする。

 

でも、そんなことを気にしないで、とにかく書き出していくと、デトックスみたいに、気分も健やかになるような気がします。

 

指先が紡ぎだすと書いたけど、実は頭か心の深いところに眠っていた、もしくは仕舞われていた、あるいは押し込められていた、そんな思考や感情が、ある時はそのままに、ある時は熟成して、文字やら図解やらとなって、現れてくるのかもしれません。

 

だったらなおのこと、時々はデトックスしてあげたほうが、魂の健康に良さそうです。

 

プロの作家さんでも、「これを自分が書いたとは思えない」といった感想を漏らしている方は多いと思います。

 

まったく、何ともしくはどこと、繋がってしまったのでしょう。

 

それが分からずとも、筆ならぬペンの流れるままに、文字や絵を書き連ねるのは楽しいものです。

 

癖になりますよ。