コロナ禍が差し出したものは、「白紙」だった、としたら?
こんにちは。
てらぴーだよ。
雪が降ったりやんだり溶けたりを繰り返している夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
コロナ禍が用意してくれたのは、「白紙」かもしれない。
白紙、まっさらな紙。
まだ何も書かれていない、したがって、何をどこから書いても自由。
そんな「白紙」を目の前に出されて、何を書いてもいいですよと神様(まさに「紙様!)に言われたとしたら、あなたは何を書くだろうか?
どこから書き始めるだろうか?
生きていく、というのは、誰かの真似をすることでもないし、「大人(たいていは親や学校の先生、または親戚関係の人)」の誘導に従って、どこにも書かれていないのに、「決められたレール」をなぞる道行きでもない。
でも、選択肢は限られていると思い込んで、どこかで自分が選ぶという権利を、放棄したのかもしれない。
あるいは、もう何年も何十年も働いてきて、「他の、ありえたかもしれない選択肢」を(わざと)見逃しているのかもしれない。
自分のことだけではなく、世間とのかかわりも、必要最小限に済ませているとか、時間的にも空間的にも「狭い」世界で生きているのかもしれない。
けれども、コロナが暴き出した。
もっと自由に考えてもいいのだ、と。
「決められていて、誰にも変更できない」ものなど何もないのだと。
もちろんそうした言説は、コロナの前からあったはずなのだけど、「現実」という、これまた幻の壁が、幾重にも取り囲んで、人々に自由に考えることを許さなかった。
学校に行くのは当たり前です。あなたが生まれる前から決まっていました。
学校を卒業したら、就職をするのが当たり前です。みんなそうしています。
仕事は退屈なものです、自分の好きなことだけしていたら、会社はやっていけません。
結婚したら退職は当たり前です。寿退社と言って、みんな喜んでくれます。
残業は当たり前です。あなた一人が退社できません。
転勤は当たり前です。単身赴任も今や珍しいものではありません。
あなたのお給料には、あらかじめ「我慢料」が含まれています。
日本史の偉人、聖徳太子は言いました、「和を以て貴しとなす」。みんな同じでそれでいい。
「靴を履いていない人(靴なんて必要のない生活をしている人)」に靴を売るのがあなたの仕事です。
ひとたび靴を売ったのなら、なるべく短期間で買い替えてもらえるように、毎年の流行を変えるとか、壊れやすい靴にしないといけません。
小さいうちにこの味になじめば、一生わが社の製品を食べてくれるでしょう。なので、子供をターゲットにするのです。
少し長めの「時間軸」を持てば、今ある生活や働き方、世の中の仕組みのあれこれなどが、そんなに昔からのものではないことが分かります。
きわめて特殊で歴史的なことなのです。
けれどもそれらをいつしか、歴史から離れて、永遠不変のものにしてしまったのではないでしょうか。
「それは、当たり前すぎて、変えることなんてできないしするべきではない」と。
でも、コロナ禍で、できないと思われていた幾つかが、実際にやってみるとできてしまった。
この成功体験は大きいと思います。
「変えられないものなんてないんだ」
身の回りから始まって、資本主義の在り方にまで変革が及ぶでしょう。
もっと楽しめる社会を目指して。
これまでの経済学で言う「成長」とは異なった、新しい「進化」への胎動が始まっているのかもしれません。
そして、私たち一人ひとりの前に「白紙」が差し出されているのです。
あなたは、どこから何を書き出しますか?