同じことをしているけど、同じことをしていない

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

春が来たかのように暖かな日の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

夕方になって、さてそろそろ今日何をしたのか振り返ろうか、と思い返していくと。

 

朝は7時に目覚め、それから(すぐにではないけれど)洗濯をしたなあ。

 

それから、コーヒーを淹れて(淹れたのはコーヒーメーカー)、バタートーストで軽く朝食。

 

午後は、お天気が良かったのと暖かかったので、久しぶりの遠出。

 

香林坊まで出て、この前教えてもらった、新しいカフェに入る。

 

などと、1日の行動を思い出していると、でも、ことごとく「同じ」ではないよな、と気づきました。

 

行動のジャンルというか、項目で分けたのなら、「朝の目覚め」とか「朝食」、「ハウスキーピングなこと」、「自転車でお出かけ」といった範疇に分けられるのでしょうけど、それぞれを少し具体的に掘り下げると、まったく同じことはしていません。

 

「朝の目覚め」でも、時間こそ大体同じでも、目覚めの詳細というかその日の目覚め具合は、いつものとは少し違います。

 

日記などに書き記す文言としては、「朝、7時に起きる」となるのでしょうけれども、その内実を具体的に細かく見ていくと、今日ならではの在り様が浮かび上がります。

 

目覚めたときの体調の感じ方、眠いか眠くないか、おしっこの溜まり具合、おなかのすき様、体を起こしたときの腰の元気具合(時折り腰痛が襲うことあり)などなど、昨日と比べても同じではありません。

 

そうやって考えていくと、「いつも」というのがあいまいになっていく。

 

毎日同じことをしていても、皆それぞれに異なるから。

 

もちろんその中の最大公約数が「いつもの感じ」になるのでしょうけれども、注意深く見ていけば、その公約数って、それほど広いものでもなさそうです。

 

つまり、毎日何かしら違う。

 

「朝目覚める」という、ほとんど毎日行っていることでも、その個別具体的なありさまは、毎朝違うのです。

 

昨日は昨日の目覚めがあり、今日は今日の目覚めがあった。

 

でも注意しないと、どこかで公約数が広がって、漠然とした「いつものお目覚め」が形作られていくようです。

 

でも実際は、個別具体的を生きている。

 

一期一会のように、すべては何もかも「一回限り」の経験なのでしょう。

 

ですから、「いつものこと」をする時にも、まったく同じではないと意識して、今日は何が違うだろうかと観察してみるのがいいのではないかと思います。

 

「休日何してた?」と家族や友人に聞かれて、「いつもと同じだよ」と答えるよりは、自分の生活を把握していることになると思います。

 

今日の行動記録に、ちょっと具体的な意味付けを行って、今日は何がどうだったのか、その、今日ならではの具体的なところを言葉にしてみましょう。

 

例えば僕は、今日の午前中に、「洗濯をしました」

 

今日の洗濯は、下着などの溜まり具合はそれほどでもなかったけれど、ローテーションの具合で、バスタオルが2枚あったのと、冬用のズボンも2枚あって、分量としては多めになりました。

 

そうした事情もあって、ハンガーラックがいっぱいになりました。

 

また、天候が良かったので、冬用の敷き毛布も洗いました。

 

などと、今日ならではの具体的な事情を言語化、日記にも付け加えて書けばいいのです。

 

毎日毎日、何をするにも、僕たちは、一期一会を生きているのですから。