最近全力で、字を書きましたか?

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

新緑狩りに行きたい夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

目に緑を入れると、気分も落ち着いて、精神衛生上いいらしいです。

 

公園にでも行って、緑に包まれたい。

 

ところで、日本語の「みどり」という言葉は、色の名前ではないそうです。

 

赤ん坊のことを「みどり児(ご)」というように、「命にあふれている」というのが本来の意味なのだとか。

 

でも、少し考えると、「命にあふれている」のは、何も赤ん坊だけではないでしょう。

 

じじいにも、じじいなりの命というものがあるはずです。

 

だって、こうして生きてますから。

 

でも確かに、生きてはいるものの、その命が「あふれている」かどうかになると、心もとないものがあります。

 

生きてはいるものの、もう尽きようとしているからでしょうか?

 

そんなことはない。

 

「元気があれば何でもできる」と、あの方も、入院しながらおっしゃってました。

 

自分で自分の手で文字が書ければ、まだまだ命は尽きません。

 

と考えて、果たして「命あふれる」文字をどれくらい書いてきたのか、疑問に思えてきました。

 

ToDoは書いてます。

 

スケジュールも、その結果としての日記も、書いてきてはいる。

 

でもその内容は、「業務連絡」的なことばかり。

 

自分の命が乗り移ったような、あるいは、気力にあふれた文字を、どれだけ書いているのか。

 

確かにToDoを、例えばその買い物リストを、全身全霊で書くことは、ない。

 

ほとんど走り書きで済ませている。

 

メモ用紙に書くのなら、なおさらチャラ書きである。

 

気合いのこもった文字を、文章をいつ書いただろう。

 

事務的な、自分あてであっても事務的な言葉の羅列に慣れ親しみすぎて、言葉に込めるはずの気力とか魂は、最近とんと使わずじまい、になっていたのではないかと、反省してみる。

 

手紙でもいい、自分にあてた宣言でもいい、1語1語に気持ちを込めました、と言える文字、文章を書いていないのではないか。

 

一画一画おろそかにせず書きましたと、胸を張れるか。

 

最近ない。

 

書いていた時期も、確かにあったように思います。

 

いつの間に、安楽な文字書きに、慣れてしまったのでしょうか。

 

文字を書くことに、感動しなくなったから?

 

ではなくて、感動するような本を読んでいないとか、感動体験から遠ざかってしまっているとか。

 

どこかで生活というものが、安易に流されていたのかもしれません。

 

感動するために何かをすると言うのも、本末転倒かなとは思うものの、気がついたら、生活の中から、感動体験が抜けてました。

 

これでは命も、輝きますまい。

 

いつも通りの日記に満足しないで、思わず握っている手に力の入る感動を書き記そう。

 

どんな力の入れ具合で文字を書いているのか、時に意識してみたほうが、いいみたいです。