メモを片手に、時代を探してみましょう

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

暖かい夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

コロナが猛威を振るっている石川県では、ずいぶんピリピリした空気です。

 

時折り、街を行く人のマスク姿を眺めながら、

 

「一体いつまで続くのだろう」とか、

 

「ずいぶん世の中も変わってしまった」といった感慨に浸ったりします。

 

けれども変化は、まだまだこれからも続くのでしょう。

 

せめてはこの、先行き不透明な時代の、ある部分における証言者として、メモをせっせと残しましょうか。

 

その時代が、どんな時代だったのか、あなたなら何を、またはどこを見ますか?

 

同じ時代を語るにも、人それぞれで、目の付け所は異なるでしょう。

 

小学生の、社会科見学のように、メモ帳を片手に、街中を自由に歩き回って、何かしらの、時代を表しているもの、またはことがらを収集するとしたら、どこに行きますか、何を見たいですか?

 

そこに、その人の個性とか、考え方、世界観といったものが現れてくるのでしょう。

 

実際の「モノ」を集めると、かさばったりして大変なので、写真やメモで切り取ることにいたしましょう。

 

今なら、交差点で人々が信号を待っているところなど、全員がマスクをしている情景が、時代を表していると思います。

 

けれどもそれ以外に、人それぞれで、「これが令和という時代だ」という記号があるに違いありません。

 

どれだけ街中の風景の変化に敏感になれるか。

 

そんな練習問題を抱えて、散歩してみるのも、頭の体操になるでしょう。

 

何かしら引っかかることがあれば、すぐにメモ。

 

それだけではただのメモですが、積み重なると、時代を切り取るノウハウへと、変貌するかもしれません。

 

自分はどんな時代に生きているのか、それが、人と同じだったら面白くない。

 

自分なりの時代のとらえ方は、日々のメモ習慣から育まれていくのです。

 

いきなり時代の相が分かるわけもなく、だからと言って、誰かの言い方を真似しても、心からそうだとは思えないでしょう。

 

歴史の本にこう書いてあるからこうだったんだ、と言って、他人の見方を丸暗記しても、知識にはなりますが、知性にはならないでしょう。

 

答えのない時代に、求められているのは、他人の正解ではなく、自分なりの解釈または誤答ではないでしょうか。

 

たとえ誤答であろうとも、目の付け所がどうであるかで、説得力もまた、違ってくるでしょう。

 

今が大変な時代ではあるものの、変化を内に込めているのなら、それは次の時代を準備している希望の時代でもあるのだ、とも捉えられるかもしれません。

 

ありきたりの見方に陥らずに、自分はどこを楽しめるのか、探し回ってもいいのではないでしょうか。

 

自分をほめる「ほめ日記」があるのなら、おもしろい時代になりそうだという「未来楽しみ日記」があってもいい。

 

そうした、おもしろいものの芽を見つけるためにも、メモを片手に見つけませんか。

 

見つけると言っても、いったいどこで?

 

それもまた、自分で見つけるのです。

 

密を避けた外出も、また、頭の体操となるでしょう。