書くことは一期一会

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

パソコンの機嫌の悪い夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

雨が降ったので、冷え込むかなと思ったら、生暖かいのでした。

 

フェーン現象かよ。

 

さて、そんな気象につられたのか、我が家のパソコンの動きが、いつにも増してにぶい。

 

5年ほど使っているけど、そろそろ買い替えなのか。

 

手帳なら、毎年更新するけど、それは1年経つと、それ以上使えなくなるから、物理的に。

 

紙に手書きしてると、「上書き」なんてできません。

 

そう思えば、紙にこの文字を書くのなんて、一期一会みたいなものだ。

 

その文字、もしくは文章は、この紙、このノートのこの部分に書かれてしかるべきだったのだ。

 

紙や手帳、メモ帳にノートのその部分には、この文字、文章が書かれるであろうことがすでに決まっていた。

 

そんなこともあるまいが、でも、一度文字を書いたなら、もうそれ以上同じところに字を書けないわけですから、その文字なり文章なりが、そこに書かれるのを待っていた。

 

その言葉は、そこにこそ書かれるべきであったのだ。

 

というか、書く内容によっては、文字や文章、あるいは図やイラストの類まで、どこに書かれたいかが決まっているのではないかと思えてしまう。

 

「書かれたい」かどうかは置くとしても、1枚ものの紙なのか、綴られたノートの類なのか、とにかく「書かれる側」が違えば、そこに展開される事柄もまた、違ってくるのではあるまいか。

 

手帳に書くか、メモ帳なのか、大判のノートが広がっているのか、そんな書かれる側の紙の在り様が、書かれる内容を左右しているのかもしれません。

 

よく、ペン先が勝手に走って文字を書き連ねたみたいなことを目にしますが、あながち誇張とも比喩とも思えない。

 

何かにとりつかれた、自動書記みたいに、紙とペンの組み合わせが、文字や文章を、すなわち思想を引き出しているのかもしれません。

 

たとえ、試し書きにせよ、その試し書きに時代の影やその人の思想が現れてはいまいか、と考えてみるのも、また楽しからずや。

 

試し書きは、ただぐるぐるするだけかもしれませんが、でもそこにも時代が宿っているかもしれません。

 

それより意味のあるメモや走り書き、何かしらのひらめきを書きとめたものになると、その人の人柄が表れてくるような気がします。

 

メモを多くとる人であれば、試みに、そのメモの、どこかの一部をコピーしてみても、その人のものだと推察できるのかもしれません。

 

どこまで拡大しても、同じ図形が繰り返されるフラクタルな図形のように、ある人のメモは、どんなに些細な走り書きであっても、その人らしさを無くしてはいないのかもしれません。

 

メモは人なり。

 

メモだけでなく、手帳の記入の仕方や書く文字に、その人の個性が写し取られていく。

 

DNAが転写されるように。

だとするのなら、手帳は書くものではなくて「育てる」ものなのかもしれません。

 

その照り返しのように、書く方の個性もまた、書くことによって、鍛え上げられていくのでしょう。

 

最初から出来上がった個性などなく、手帳に書くごとに、メモを重ねるたびに、ノートのページが進むにつれて、己が個性もまた、掘り出されていくのでしょう。

 

書くことは、仏師が木から仏さまを取り出すように、文字を連ねて、自分を探し出す営為でもあるのです。

 

書くことで、見たこともない自分に出会いましょう。