どんな紙も、書かれるのを待っている
こんにちは。
てらぴーだよ。
霧雨の夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
霧雨は嫌いだ。
傘を差すほどではないとして、差さずに歩いていると、いつの間にかしっぽりと濡れてしまう。
リュックに入れた紙製品がふやけて、ウミウシのひらひらするあれのように、そこはかとなく波打つのも、興ざめなものである。
紙の大敵は湿気、水分ではなかろうか。
1度ふやけてしまえば、その波打ちは、後々までも残るであろう。
何年か前、図書館で借りた本を返そうと、雨の降る中を延々2時間ばかり歩いたところが、リュックの中にまで雨が浸水してて、もう全体的に波打ってたのでした。
見ていると、図書館の方が、わら半紙のようなざら紙を、1ページごとに挟み込んでいます。
その後、万力のような道具でもって、全体に均等に圧力をかけるのだそうです。
紙を挟んでいるところは見ましたが、その後は「あとで連絡します、同じ本を購入してもらって、弁償してもらうことになるかもしれません」と言われたのでした。
結果として、弁償はしないで済みました。
あの状態からリカバリーできたのか、と感心もしました。
そんなことがあったくせに、以前は、紙が濡れるというのが大嫌いでした。
本やノートの波打ちは、かなりのストレス。
特に新しいノートが波打つと書き心地も悪くなるので、捨てたい気分になったものです。
それがいつごろからか、紙の波打ちやしわが寄ることなど、あるいは折り目がつくことなどが気にならなくなりました。
それもまた個性であると、受け入れられるようになったのでしょうか。
今では、しわくちゃの紙でも、気にしないで筆記できます、というか、そうした紙の方が書くのが面白いくらいです。
真新しい紙が何枚か重ねられていると、めくりにくい時があるではないですか。
そういう時も躊躇なく、紙にしわを寄せたりします。
そのほうが、1枚1枚扱いやすくなるからです。
そう言えば、ノートではありませんが、新しく買った国語辞書のすべてのページを1枚ごとにくしゃくしゃに丸めてみたことがあります。
その時何かで読んだのですよ、辞書の紙を1枚1枚くしゃくしゃにすると「引き心地」が断然違う、と。
それに、辞書の紙というのは、1度や2度くしゃくしゃにしてもへこたれることはない、と。
それで、おもしろそうだとやってみました。
結果、背中の大きさは変わらないものの、端の方が2倍くらいに膨れ上がりました。
こうなると、ケースには入りません。
でも、ページがすべて、あらゆる方向に波打ってるので、ページがめくりやすいったらない。
もしかしたら、手袋をしてても、目指す言葉を探せるのではないか、と思えるくらいに。
今ではさすがにしませんが、それでも、たまに辞書を引いたときに、つるつる滑るようなとき、ページを少し手のひらの中に軽く握ったりするときがあります。
少し波打ってた方が、めくりやすいから。
したがって、語句を探しやすいから。
ピンと張った紙も美しいものですが、しわが寄ってたり、波打ってたりしてても、味わいがあるものです。
そしてどんな紙でも、書くことは楽しいことなのです。
1枚でも、重なり合っていても、紙はおとなしく、書かれるのを待っているのでしょう。