認知症とコロナと「人新生」

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

擦りむいた左手の肘が痛い夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

ここ数か月、自転車で転ぶことが増えました。

 

確実に、廊下してます。

 

いかん、漢字変換も老化かよ。

 

みんな、ろうかしている。

 

まあ、それはそれとして。

 

筋力が無くなったのか、目で確認した情報が脳に伝わるのが遅いのか、転ぶんですよ、自転車で。

 

ほとんど、乗り始めの、まだ不安定な時に、バランスを崩して。

 

それはもう、見事に。

 

踏ん張ることもできずに。

 

それで昨日も、ただただ体を地面に打ち付けて、転びました。

 

その際に、肘が壁にでも擦れたのか、血が出ました、と言っても大したことではありません。

 

ただ、お風呂に入ると少ししみます。そんな程度の擦り傷。

 

今はまだ、字も書けるし、物事を考えられてると思っていますが、字が書けなくなったり、書いていることがめちゃくちゃになってきたらどうしよう。

 

わけのわからないことを言い出したり、書き連ねたりする頃は、本人はもうすっかりぼけているのだから、「恥ずかしい」という感情も感じられなくなっているのでしょうか。

 

それならある意味一安心。(おいおい)

 

でも、そんな風に認知症になっても、時折りは「正気」に戻ったとしたら、恥ずかしいやら情けないやらで、いたたまれなくなってしまうでしょう。

 

いったい何の罰ゲーム?

 

希望は「ピンピンコロリ」だけど、でも、それって「希望」か?

 

幸い、まだ少しは時間的に余裕がありそうなので、大きな不安とはなっていないのですけどね。

 

そのうち、ToDoリストに「ピンピンコロリ」って書くかも。

 

その前に、「死ぬまでにしたいことリスト」でしょう。

 

このコロナ禍で、「旅行に行く」系のリストが、書きにくくなりました。

 

世界が緊密に結びついて、「世界システム」と呼ばれた事態は、戻ってくるのでしょうか?

 

それとも、グローバルという言葉の意味を、問い直さなければならないのでしょうか?

 

気軽に、それこそ「デイパックひとつで」海外旅行に出かけられた時代に、戻れるのでしょうか?

 

インバウンドは、復活できるのでしょうか?

 

資本主義的な生産様式、そこから派生する生活の在り方が見直されるということは、これまでのような、大量生産、大量消費、そして大量廃棄が、もうできなくなるということでしょう。

 

そうなれば、生活の在り方も、世界の成り立ちも、変わっていかざるを得ない。

 

「エコバッグ」が新しい市場を切り開いたという資本主義のしぶとさに、安心していてはならない。

 

こうした「大きな問題」を語るときに、「我々一人ひとりが考えていかなくてはならないのでしょう」といったものの言い方がなされますが、まさに事態としてはその通りだと思うものの、実のところ、その「我々一人ひとり」は、めんどくさいことが嫌いなのでした。

 

1980年代の中ごろのエコロジーブームの時も、例えばごみの分別で、きちんと分けている人はいいとしても、そうでない人もいるわけです。で、分別で環境が少しでも改善されたとしても、分別していない人も、その改善の恩恵を受けられるわけだから、まじめに分別に精を出すのがばからしくなるという、「ぬけがけ問題」がありました。

 

このままでは、気候変動が、後戻りできないところにまで進んでしまう。それで、真剣に生活を見直す人もいれば、そうでない人も出てくる。

 

でも、強制はできない。

 

でも、持続可能性は、もう抜き差しならないところまで来ている。

 

このままでは、地球環境は「マジヤバイ」。

 

だからと言って、資本主義は拡大再生産をやめられない。

 

でも、諦めたらそこで試合終了ですよ(安西先生