本を読むことは「出会い」なのだった
こんにちは。
てらぴーだよ。
もう5月も終わるというのに肌寒い夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
「ひと月」という区切りが、明日訪れます。
この間にも、いろんなことがあったでしょう、誰の人生においても。
中でも大きな出来事としては、人との出会いがあると思います。
けれども、性格により、職種により、出会いが少ない方もいらっしゃるのではないでしょうか。
大きなお世話、的な話ではありますが、かく言う僕がそんな一人。
この一か月、新しく知り合った人は、片手で足りるくらいです。
ごめん、嘘でした、二人です。
ピースサインで足りるくらいなのでした。
でも、それをはるかに上回る出会いがありました。
今度はほんと、それは読書です。
何しろ文章なんて個性そのものですから。
初めて読む、ということはとりもなおさず、初めての出会いということにしてもいいでしょう。
特に読みやすいエッセイなんかだと、その人の人柄が出ますから、一人の、生身の人間を知ったのと同じくらいの「濃さ」がありますよね。
もちろん、出会ってはみたものの、なんか違う、ということで、それっきりになる人(著者)もいるのは世の習い、というものです。
また、以前は好きだったけど、久しぶりに会ってみたら、なんだか違ってた、ということもあるでしょう。
がっかりすることもありますし、目を見張ることだってあります。
男子、三日会わざれば、刮目して見よ、というではないですか。
昨今の流れでは、そんなの「男子」に限らない、と言われそうで、でも、まったくその通り。
特に、以前読んで感動した著者が、相変わらず素敵な文章を書いているというのもうれしいことですが、それほど感動しなかったのに、実は心を動かされる書き手であった、と発見する時も、喜ばしいものです。
その方の文章が変わっていなくとも、こちらの受け取り方が変わる、深くなると感じる時は、自分の成長を実感できます。
本が、成長を測ってくれるバロメーターになるのです。
まるで、さび抜きでお寿司を食べていた小学生が、ワサビの味に開眼するように、以前は楽しめなかった本を、深い感慨とともに味わえることだってあるのです。
生身の人間だと、好きな時に都合よく呼び出したりして、話をしてもらったり、議論を吹っ掛けたり、話を聞いてもらったりするなんてできませんけど、書物ならそれができます。
しかも、今はもういない、歴史上の人物とも、出会うことができる。
ことによったら、その費用は数百円、あるいは(図書館で借りると)タダ。
こんなに都合のいい友人もいないでしょう。
時に友人ではなく、師匠ともなったり、相談相手ともなってくれたりもします。
自分に合った、あるいは合わなくても、生きることの奥深さを教えてくれたり、単純に、人生の楽しみ方を示唆してくれたり、傍らにいるようでもあり、遠くから、けれども、いつも見ていてくれるような存在であったり。
出会いの多様性を楽しみたいのなら、本を読む。
それも軽薄なものは手に取らないで、書いた人の人柄がしのばれる文章がいいですよね。
どうやって探すか?
そりゃあもう、ナンパと同じでしょう。
数打ちゃあたる、それしかないような気がします。