変革の時代だから、時代の先端で○○○○みたい

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

暖かくなった夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

日中は暖かくなったけれど、朝晩は冷え込む、と思っていたのに、もう夜自転車を飛ばしても、寒くはありません。

 

稲も(僕が植えたわけではありませんが)、すくすくと成長しているようで、弥生の昔から、幾度となく繰り返されてきた営みが、令和3年の今年も実現しているのです。

 

田んぼ、えらいなあ。

 

蛍の復活を切に祈る。

 

蛍と言えば、兼六園のすぐそば、白鳥路ホテルの横にある遊歩道が、蛍が舞う道として知られていましたが、今年もまた光ってくれるのでしょうか。

 

人類の進化発展もいいけれど、毎年繰り返される命の営みにも、厳粛なものを感じます。

 

そう簡単に、人間の都合で変えてはいけない。

 

戦後の、高度経済成長というのは、一方で、現在につながるいろんな問題点を出現せしめた原点でもあったように思います。

 

資本主義のとらえ直しが進む今、あの時期を、奇跡の復興期とばかりに評価してはなりますまい。

 

ひとつの時代は、必ず次の時代を準備しているものですから。

 

ですから、高度成長が「終わって」、バブルの崩壊や「失われた30年」が始まったのではなく、それらは連続体として、時続き(じつづき)であるわけです。

 

どこにも、断絶なんかない。

 

それゆえ、「あの頃は良かった」と思うことも、あの頃に戻ればいいと空想することも、一面的に過ぎるのでしょう。

 

人類の歴史において、何から何まで「良かった時代」なんて、あったためしがないのですから。

 

今のこの時期だって、何かしらの変革を用意していることでしょう。

 

それが、「シン・ニホン」につながるのか、資本主義を脱して、コモン、公共財の世の中になるのか、傍観者でいると、変革の楽しみも、半減します。

 

こんな時代に生まれ合わせた偶然を存分に堪能しないで、どこに喜びがありましょうや。

 

どこまでも受け身で生活していても、時代の変化というものは、最初は一部の人たちが享受していても、やがては多くの人たちに、いきわたるものなのです。

 

明治維新、「御一新」なんて関係ない、と思った人もいたでしょうけれど、男であったなら、いつまでもちょんまげをしているわけにもいかず、散切り頭に変わったように、令和の時代の変革にも、抗うことは難しいと思われます。

 

もとより、おもしろい方向に舵が切られるのなら、真っ先に山車を動かす方に飛び出すのもありですよね。

 

後から続く「その他大勢」には見えない、時代の先端が見えるかもしれません。

 

そしてその資格というものは、知識の量とかではないし、「ヘンサチ」でもありません。華麗な、外資系の会社にいたという経歴でもないし、菅総理とつながっているといった、人脈でもないでしょう。「現役のトーダイ生」で「ノートがきれいに書ける」学力でもありません。

 

ゴジラ並みの破壊力で、「シン・ニホン」をなぎ倒し、「人新世」の上に資本主義の終わりを堆積させる、そんな知性があるとしたら、それは、踊り狂えるあほなこと。

 

かの伝統的な楽曲でも、このように歌われているではありませんか。

 

 

 

踊るあほうに見るあほう

 

同じアホなら

 

踊りゃなそんそん