過去にも今にも未来にさえも、とらわれない
こんにちは。
てらぴーだよ。
1年で最も昼の時間が長い夏至の日の夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
昼の時間が長いのか、もっと遊んでおけばよかった。
季節と言えば四季。
これは4つ。
日本ではさらに細分化されて、24節気(にじゅうしせっき)とか、さらに細分化されて、72候(しちじゅうにこう)まであるそうです。
今グーグル先生に聞いたところ、24節気は、古代中国からきているとのこと。
72候も、出どころは中国だけれど、こちらは、江戸時代に我が国に合うように変更されて、「本朝72候」がつくられたそうです。
元はと言えば、地球が、太陽の周りを傾きながら回っているだけなのに、そこに微妙な違いを発見して「季節」とするなんて、昔の人はみんな天文学者だったのでしょう。
地球の自転や公転という「長さ」を細かく割っていき、「時間」というものを測れるようにした。
時間は、まずは、長さだったのでしょう。
それにしても、今日の残り時間もあとわずか、でも何が「わずか」なのか。
あと少しで、地球が一回転することになりますよ、だったら距離なのでしょうけど。
常に「今」である時間、何が動いているのでしょう。
世界が、5分前に作られたとしても、我々はそれを見破ることができない、という哲学の命題があるそうですけど、過去は確かに過去だという確信はどこから来るのか。
もしかしたら、自分のこれまでの生涯と信じているものも、5分前に作られたものかもしれないのに。
過去が今になるのではなくて、今がどんどん過去になっていくのでしょう。
その今は、未来からきている?
手帳を開いて、明日の予定を書いているのは今。
その予定は、未来にあるのではなくて、今の連続が到達して予定の地点に達する。
ループはできない、ひたすら今を消化して、待たなくてはならない。
動いているのは何?
時計の針?
その動いた距離が、時間?
手帳を開けば、例えば1週間のバーチカルなら、縦の長さが時間のカタマリを示している。
月間のカレンダーだと、マス目の数で日数が数えられる。
手帳の中では、時間はそこにある。
けれどもそれらは、あくまでも記録用で、過ぎてしまった時間の、標本のようだ。
これからのことを予定としては書けるものの、記録としては書けない。
未来は固定されない。
でも、過去だって、固定されたものとは限らないのではないか。
今の変わりようで、過去もまた変わりうるのだから。
だとしたら、評価なんてまだまだ早い、ということにならないか。
これまでがこうだった、だから今こうだ、これからはその延長でとらえないといけない。いきなり何もかもが変わることはないので。
といった、固定観念は、根拠がないのだろう。
かと言って「振出しに戻る」もなしだ。
自分がどこまで自由なのか、試してみるのも悪くない、と思う。